三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

吉川英治記念館閉館

 いささか前のニュースになるけれど。
 青梅市二俣尾にある吉川英治記念館が、今年度いっぱいで閉館することになった。

吉川英治記念館の平成30年度の開館について―草思堂から 吉川英治記念館学芸員日誌
 http://yoshikawa.cocolog-nifty.com/soushido/2018/10/30-45b6.html

 前々からその予兆はあった。
 開館が季節限定へ、さらには週末限定へと縮小していったり、去年には存続が危ないことがはっきりとニュースにされた。
 なので、とうとう来たなという感じだった。遠からずそういう日が来るだろうなと。
 オープンから42年、さすがに足を運ぶ人がめっきり減ったと聞いていたし、それに吉川英治が亡くなって50年がたってしまったこともたぶん大きかったんだと思う。

 今後はどうなるか、ニュースを見る限りではわからない。
 資料の保存と貸出は継続するそうなので、少なくとも資料館部分は残るだろう。旧宅母屋含む建物全体については、今年の2月頃に青梅市へ寄贈する案が検討されているとはニュースで見たけど、その後の動向は知らない。
 
 現在は冬のオフシーズンに入ったので、次に開館するのは来年3月。これが最後の開館月になる。3月はこれまでの週末限定開館をやめて、3月1日から20日(水)まで、月曜をのぞいた平日と休日に開館するという。
 それと、毎年恒例の吉川英治旧宅見学も行われる。
 普段は非公開の母屋を見学できるというツアーで、今年度は12月9日・16日と、2月10日・17日・24日という日程になっている。
 12月分はすでに募集が終わっているけれど、2月分は1月27日まで申し込める。
 http://yoshikawaeiji-cf.or.jp/news/koukai.html

 静かで、とても美しい邸宅だったし、それに二俣尾という土地自体も僕は気に入っていた。
 最後の来館機会に、少しでも多くの三国志ファンが訪れてくれたらと思います。

諸葛亮はいつから東南の風を呼ばなくなったのだろうか

 このあいだ『吉川三国志』の諸葛亮の論文を書いたとき、ひとつどうしてもわからないことがあった。

 孔明は、それに対して、こういうことをいっている。
「むかし、若年の頃、異人に会うて、八門遁甲の天書で伝授されました。それには風伯雨師を祈る秘法が書いてある。もしいま都督が東南の風をおのぞみならば、わたくしが畢生の心血をそそいで、その天書に依って風を祈ってみますが――」と。
 だが、これは孔明の心中に、べつな自信のあることだった。毎年冬十一月ともなれば、潮流と南国の気温の関係から、季節はずれな南風が吹いて、一日二日のあいだ冬を忘れることがある。その変調を後世の天文学語で貿易風という
 ところが、今年に限って、まだその貿易風がやってこない。孔明は長らく隆中に住んでいたので年々つぶさに気象に細心な注意を払っていた。一年といえどもまだそれのなかった年はなかった。――で、どうしても今年もやがて間近にその現象があるものと確信していたのである
――『吉川三国志』巻の八「孔明・風を祈る(二)」

 諸葛亮赤壁の戦いで東南の風を呼ぶ「借東風」のことなのだけれど、この『吉川三国志』みたく、現代の作品ではほとんどの場合、「諸葛亮は風を"呼んだ"のではなく、風が吹くことを"読んで"いた」と説明される。柴田錬三郎横山光輝園田光慶、三好徹、李志清北方謙三諏訪緑......、むしろ「風を呼ぶ」作品をちょっと思い出せないくらいに、「風を読む」作品が圧倒的に多い。あまりに広まりすぎて、「諸葛亮が風を呼んだのはフィクションで、本当の史実では諸葛亮は風を読んだのだ」、なんて勘違いをされてしまうくらいに*1

 それで、この説明って一体誰が初めに言い出したんだろう?
 よく『吉川三国志』が最初って言われることがあるけれど、僕はちょっとそれが疑問で、と言うのもこの説明が中国でも結構広まってるっぽいからだ。
 たとえば、「レッドクリフ」のジョン・ウー監督なんかは、諸葛亮役の金城武から教えられて初めて、「諸葛亮が祈祷で風を呼んだ」ことを知ったとインタビューで答えている。それまでは、「風を予測する」以外の物語解釈があること自体を知らなかったのだ。実際、劇中でも諸葛亮は、土地で暮らした経験から風を予測したことになっている(でも金城武のアドバイスで、風を呼んでいるように見えるシーンもちょっとだけある)。
 僕が持っている中国の連環画(1994年出版)でも、「諸葛亮は天文に精通しており、この時期に東南の風が起こることを測定した」と書いてるし、あるいは中国の民間伝承でも「風を読んだ」とする物語があるという(『三国志外伝』徳間書店)。
 今の日本で「風を読む」解釈が広まってるのは間違いなく『吉川三国志』の影響だろうけど、でもさすがに中国のものにまで直接的にしろ間接的にしろ影響を与えたとはちょっと考えられない。きっと双方に共通するアイディアソースがあるはずだと思う。
 でも、結構がんばって調べたんだけどこれがまったくわかんなくて、『吉川三国志』より古い時期の「風を読む」ものはひとつも見つけられなかった。結局論文では、「おそらくだが『吉川三国志』の独創ではない」とだけ書いてお茶を濁してしまった。
 もし知ってる人がいたら、ぜひ教えてください。

*1:天候を操る魔術師的な諸葛亮では違和感があるということで、そういう科学的に説明がつくアレンジを加えるってのが、現代のフィクションの主流になっているってだけである。『時の地平線』のように、この「常識」を利用してさらにアレンジを加える作品も最近では多い。ちなみに、逆に『演義』のような超自然の力を使う諸葛亮というと、代表的な三国志作品だと僕は『蒼天航路』くらいしか思いつかない。人形劇はどうだったっけ?

『三国志研究』13号に論文と書評を書きました

 とてもとても久しぶりに、吉川英治三国志』について書いた。
 今年の『三国志研究』13号に載っけてもらった、「大衆と伍す英雄 ―吉川英治三国志』における諸葛亮像の形象」という論文です。
 諸葛亮は、『吉川三国志』のなかでは曹操に並んで、いや曹操以上にスポットを当てられた英雄だった。
 そんな諸葛亮に対し、作者の吉川英治はどんな風に考えていたのか、諸葛亮という人物のどのあたりにその英雄たる所以を見ていたのかを、今回のテーマとした。
 『吉川三国志』は基本的に『三国志演義』そのままだって言われてて、僕も大体その通りだと思うけれど、それでも吉川英治のオリジナリティが見え隠れするところがないわけでは決してない。
 『吉川三国志』が語る諸葛亮の姿には、そんな吉川英治のオリジナリティが少なからず込められているように僕には思えた。しかもそれは、今の日本での典型的な諸葛亮のキャラクターと通じるものがあるんじゃないかとも思う。この諸葛亮論を通して、改めて『吉川三国志』が現代三国志の先駆けと呼ばれる所以を探ってみたい。そんなことを目指して書いた論文です。
 とは言っても、もちろん僕は文学研究の専門的訓練をしてこなかった人間なので、ちゃんと書けているかどうかは全然わからない。自分なりには、結構しっかりやったなという気ではいるんだけど。どうか、笑って読んでください。 


 これともうひとつ、今回の号では仙石知子先生の『毛宗崗批評『三國志演義』の研究』という研究書の書評も載せていただいた。
 ひとつの号に2本も載っけるなんてずいぶん生意気なことだし、そもそも僕なんかがこの本の書評を書くってのも大概に生意気なことである。
 書評というのは、その研究を批評し、当該分野の研究史にどう位置づくかを論じるものであって、書評それ自体がひとつの研究行為となる。
 だから当然、この本の書評は『三国志演義』の専門家が書くべきであって、僕のようなファンがやることではまったくない。レビューとか読書感想文とかとは違うのだ。でも、偉い人からやっていいよと言われたので、言葉に甘えてやってしまった(もちろん僕からやらせてくださいなんて言えるわけがない)。それにちゃんとした書評はいずれ専門の先生が書くはずだし、たぶん大丈夫だと思う。
 仙石先生の研究は、僕が『三国志演義』を好きになったきっかけ、というか文学研究というもの自体に最初に触れた研究であったので、すごく思い入れがある。『吉川三国志』で論文を書いてみたいと思ったのだって、もちろん仙石さんからの影響である。こいつは仙石さんのファンだから、と師匠によくからかわれる。
 だから、読書感想文になることを覚悟で書いてしまった。師匠の言葉を借りればファンレターとも言う。やっぱり、どうか笑って読んでください。
 でも仙石さんの本で、『三国志演義』を好きになる人が増えたら、それはとてもとても嬉しい。

柿沼陽平『劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』』

 このブログを見返してみると、あんまり僕は本のレビューとかをやってこなかったみたいなんだけど、でもやっぱりこの本についてはひとつ書いておかなきゃなって思う。
 正直に言って、"あの"柿沼先生が書く三国志の本ってことで期待していたものとはまったくの別方向の本だったのだけど、その別方向で大いに勉強させていただいた本だった。
 想像とは違っていたけどいい本だった、ってのが僕のだいたいの感想です。
 
 まずなにより僕がいいと思ったのは、――本の中身とは直接関係ないことで申し訳ないけど、渡邉義浩先生の本じゃないということそれだけで、まずいい本だと思った。いや渡邉先生で悪いことなんてこれっぽちもないのだけれど、でもたまには、渡邉先生以外の三国志の本だって読んでみたいと思うじゃないですか。
 改めて言うことでもないけれど、三国志というテーマは(あるいは歴史学や文学という分野そのものが)、見る角度によってまるでいろんな見方ができる。取り組む人の数だけ三国志のかたちもある、ってのはけっこう誇張表現じゃなくて、そこに三国志の魅力のひとつがあると言ってもいい。渡邉先生の本が面白さもその辺にあって、この先生は非常に強固な渡邉義浩的三国志を持っていて、それを著書の中でたくみにひそませるからこそ――時には全然隠せてないけど、あんなに楽しく読めるんだと僕は思っている。
 だからこそ、それ以外の人たちの三国志ってのもそれと同じくらい見てみたいと常々思っていた。しかし専門家が一般に向けて書いた三国志の本は、ここ十年で見てもそれほど多くはない。思い返してみても、井波律子先生が最近たくさん書いておられるみたいだけど、それを除くと、たぶん満田剛先生や石井仁先生あたりまで遡ってしまうのではないだろうか。本当にこの十年あまり、めぼしい三国志の本はほとんど渡邉先生ひとりによって手がけられてきたのだ。
 そんな中で久しぶりに現れた柿沼陽平という先生は、渡邉先生とはだいぶ異なるタイプの研究者だと思う。もちろん、ふたりとも歴史学という点では共通するのだけど、渡邉先生が儒教だったり文学だったり士大夫的な名声(ようするに「名士」)だったりと、三国時代を文化的な要素から見ようとしていることに対し、柿沼先生が得意とするのは、経済、国家制度、あるいは出土文字資料という、今の中国史学の王道と最前線をゴリゴリと進むような研究である。とくに柿沼先生の専門とする貨幣経済に関すること(たとえば劉巴の話とか)は、やっぱりさすがだと思った。
 そうした意味において、これまで渡邉先生の新書を読んだことのある人にはぜひこの本も読んで欲しいし、逆にこの本が面白いなと感じた人は、ぜひ渡邉先生の新書も手にとってみてください。三国志もいろんな見方ができるんだなということが――ごくごく当たり前のことなんだけれど、実感できると思う。

 もうひとつ、この本のいいところは、その文章ということでも、その解説の中身ということでも、とにかく読みやすいってことだと思う。正直、読んだときに「ここまでか?」って思ったくらい、これでもかとわかりやすく平易な説明に徹している。
 冒頭、「期待していたのとはまったくの別方向だった」と書いたのはまさにこの点で、僕は最初、あの柿沼先生の書く本なのだから、きっと僕のまったく知らない新しい知見が盛りだくさんなのだろうなと期待していた。その点で僕の予想はまったく裏切られた。
 でも考えてみれば、新書というのはそのジャンルに興味・知識がまだあまりない人でも比較的手に取りやすいというか、むしろそういう読者の方が多数ともなるものだから、当然、読者は三国志を知らないか、ぼんやりとは知っているくらいを想定すべきなのだろう。僕が勝手に、たとえば講談社メチエとか東方選書みたいなレーベルで書かれる密度を期待してしまっただけのことで、それは裏切られて当然だったのだ。
 で、改めてそうした「わかりやすさ」に注目すると、この本は勉強になることが多かった。ご存じの通り、簡単に書く、と簡単に言うけれどそれを実際にやるのは想像するよりもずっと難しい。専門的知識を初学者にわかるよう噛み砕く難しさ、文章として読みやすい文章を書くことの難しさ。その難しさにはいろんな種類があるけれど、そのなかで個人的経験から言うならば、僕の場合は「書かないこと」が何より難しかった。ついつい書いてみたいことやってみたいことがあふれすぎて、出来上がった本はまあマニアックな本になってしまった。本当に申し訳なかったと思う。こういう欲求をおさえつつ、ニーズを正しく読み取って、大事な情報だけを整理して文章を書くというのは、少なくとも僕のような若輩には大きな忍耐を必要とすることだった。
 まあこれはあくまで僕の場合であって、柿沼先生のような経験豊富な人なら、その辺も苦もなくこなしてしまえるのかもしれない。ただそれでも、この本のあとがきを見た感じ、やっぱり少なからず苦労もあったんじゃないかなと思う。どうなんでしょうね。

 ともあれ、この本はこれから三国志を知る人に向けたものとして、本当に読みやすい。
 そしてそうでありながら、コアなファンをただ退屈させるものでも決してなくて、初学者が読む邪魔にならない程度に、興味深いキーワードが散りばめられている。多くは語らないけど、「こういうこともあるけどね」とわかる人にはわかる一言がそえられている。あるいはさらに興味を持った人が、よりディープな知識に触れることができるよう、ほかの書籍や論文への誘導も丁寧にされている。
 さっき、一緒に読むといいと言った渡邉先生の本とこの柿沼先生の本、どっちを先に読む本として勧めるべきか、ちょっと迷うけど、もしかしたら軍配は柿沼先生のほうに挙がるかもしれない。

 こんなところが僕の感じたこの本の「いいところ」なんだけど、一応不満だったことも挙げておくと、ところどころで、「それってそうだったけ?」と首を傾げるところもあった。まあそれは細かいところなので置いておくとして、全体的なことを言うなら、「既存の劉備像・諸葛亮像をひっくりかえす」ことにやけに前のめりな姿勢が僕は気になった。
 オビに「歴史学の最新知見が教える「名君」「天才軍師」のウラの顔」って書かれていることはまあよくあるキャッチーなコピーだとしても、本文中でも何度も、「本当に劉備はよく言われる仁徳の君主なのだろうか」的なことがくりかえし強調されている。
 で、こういう仁君としての既存の劉備像ってのは、要するに『三国志演義』的な劉備像のことなので、あんまりそういう話ばかりが出てくると、『演義』マニアとしては正直に言ってあまりいい気分にはならない。一般向けの三国志本でありがちな、『演義』を間違った知識・イメージの象徴として槍玉に挙げるような言いぶりで、僕としては「お?やるのか?」って言いたくなる。
 もっとも、こういうわかりやすいテーマを軸にしてくれたほうが普通の読者には読みやすいのだろうし、そういう意味でこれも柿沼先生の「わかりやすさ」に対する心配りなのかもしれない。
 それに当の柿沼先生はというと、『演義』については「史実と虚構が絶妙に混ぜ合わされ、一つの壮大なドラマが展開され、古来、中国民衆文学の最高傑作とのよび声が高い」「すばらしい文学作品」と絶賛しているわけで、自分自身のことも「中学校のときに横山光輝の漫画『三国志』を読んで以来、三国志の世界に魅入られてきた。だいたいどこの学校のクラスにも一人か二人はいる、三国志好きであった」と振り返っている。随所に三国志そのものへの愛も感じられて、そこまで言われてしまうと、こっちとしても「ま、今日のところはカンベンしたるわ」となってしまう。
 なんか全部、柿沼先生の手のひらの上な気がするけれど。
 
 

劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』 (文春新書)

劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』 (文春新書)

『はじめて学ぶ中国思想』(ミネルヴァ書房)

 好きだったブログやpixivが、そのうち更新頻度がさがり、すっかり告知をするためだけのものになってしまってガッカリした経験、よくあります。
 管理人さんの環境の変化とか多忙とか、そういうのはよくわかります。でも正直ファックって気持ちも抑えられない。


 さて告知であります。
 

はじめて学ぶ中国思想:思想家たちとの対話

はじめて学ぶ中国思想:思想家たちとの対話


 この本が取り上げる中国の思想家は約80人。
 ……そんなにいたのか。
 彼らの個人の生涯と思想を見ていくことで、思想史の流れもだいたい掴めるようにっていう、そうゆうコンセプトの本です。
 僕が担当したのは、董仲舒司馬遷&班固・陳寿&范曄・劉知幾・王夫之の5項目です。董仲舒の項目なんかはとくに楽しく書きました。でもほんとは関羽の項目を立てたかったんです。けどダメって言われました。ダメかぁ……

 
[ここがポイント]
◎ 原典を引用したQ&Aで思想の核心に迫る。
◎ 思想家の生涯、時代背景もしっかり紹介。
◎ 一冊で中国思想の大きな流れを捉えることができる。
◎ 資料としても、読み物としても充実。 

 こんな感じだそうです。
 書いた側からすると、「思想家との対話」と銘打たれたこのQ&Aスタイルがなかなか大変で、そしておもしろかったです。決められたスタイルがあるってのは時として難しくなることもありますが、同時にそれを逆に利用して工夫することもできますからね。董仲舒の項目で取り上げた「天人三策」なんてのは、武帝董仲舒の対話そのものなんで、このスタイルのおかげでずいぶん書きやすかったです。
 
 初学者向け入門テキストってことですけど、扱う中身自体はわりと専門的で、僕んとこ以外はたいていどれも専門の先生たちが書いてます。
 よかったら読んでみてください。

「銅雀台(邦題:曹操暗殺 三国志外伝)」を観た

 三国志だったらなんでもおもしろいおもしろい言う僕なんですけど、この「曹操暗殺」ばかりは...正直わかんなかったです。

 時は建安二十四年暮れ。
 滅亡間近の漢王朝を舞台に、董承の乱・伏皇后の乱・吉本の乱という3つの暗殺劇をモチーフにしたオリジナルストーリーが展開されます。
 はたして、曹操の命を狙う黒幕は誰か?
 伏皇后が?
 献帝か?
 それとも曹丕か?
 そもそも曹操とは、本当に斃すべき悪なのだろうか?

 そんな登場人物それぞれの思惑が絡み合う中から、少しずつ真実が紐解かれていくストーリー展開が本作の一番の見どころだと思うんですけど……。いかんせん、三国志を知ってる人にはどうしたって黒幕が分かっちゃうんですよね。
 まあ原典がある以上それは避けられないことですし、そういう縛りがある中でもなんとか工夫をしている様子は脚本から窺えます。中盤まで曹丕が糸を引いているかのようなミスリードをしていることもそのひとつですし、何より曹操の側近の道化男が実は医者であること、実は吉太医その人であることも、視聴者にはギリギリまで明かさないようにしています。でも結局のところ、黒幕はやっぱり原典通り吉太医なわけで、ミスリードを連発した分、どうにも肩透かし感があるのは否めません。
 そして「曹操は本当に悪なのか」というもうひとつのテーマにしたって...どうだろうこれは。そんな3周遅れの命題で、しかも出した答えは実に普段通りのいいヤツな曹操像。
 今じゃ悪者曹操を探す方がよっぽど大変なのに、本作の曹操はものすっごい普通のいい男です。民に慕われる名君にして、すごく強い覇者であり、その上漢の忠臣でもある。それどころか良き父親でもあり、愛する女には一途な想いを向ける。どう考えたって盛りすぎです。役満か。とにかくめくら滅法に美化してみましたって感じで、ちょっと考えちゃいます。
 つまり、三国志をちょっとばかし知ってちゃうと、最期までなんにも予想が裏切られないんです。そういう意味で、「三国志を知らなくても楽しめる」とはよく言いますけど、本作は「三国志を知らない方が楽しめる」なんです。ネットでレビューを探してみても、あんま三国志ファンのやつにあたらないのも、そういうことかなって思います。

 もちろん、全体ではなく個々に目を向ければ面白いところもたくさんあるはずです。個人的には曹丕のキャラクターがけっこう好きです。献帝は見事にバカ君主でしたねぇ。あと玉木宏は文句なしにかっこよくて、あれしか出番がないのがもったいないくらいでした。アクションで言えば、僕は伏氏サイドの刺客がお気に入りです。まるでニンジャだ!
 しかし、そうしたことに三国志的な意味があるかと言うと、ほぼないと言っていいと思います。曹丕がああいうキャラになるのはよくあることでしょう。曹操から武人気質を抜いた感じですね。曹操を持ち上げるために献帝をバカにするのも今に始まったことではありません。
 たぶん、映画としてはよくできているはずです。そのあたりは僕には詳しくはわからないのですが、ただレビューでは好意的なものの方が目立ちましたし、僕にしても「退屈だなあ」とか思いながら観ていたわけではなく、けっこう楽しく観れました。
 それでもやっぱり、これが三国志かというと、僕は首を傾げないわけにはいきません。ストーリーや演出はたぶんおもしろい。でもたとえば、この作品から固有名詞を全部取っ払っちゃって、中国とはぜんぜん違う国に舞台を移して、でも脚本はそのままに撮影し直しても、もしかしたらそれでもこの作品はおもしろいままなんじゃないだろうか……?
 結局、この作品が三国志で何をやりたかったのか、作品を通して三国志に対し何を言おうとしていたのか、今の僕には考えてもわかりませんでした。。
 いずれもっと三国志に詳しくなったらまた観たいと思います。

「関雲長(邦題:KAN-WOO 関羽 三国志英傑伝)」を観た

 関羽を主人公に、『三国志演義』の一幕である「五関斬六将」をクローズアップしたアクション映画です。
 面白かった。
 いや「レッドクリフ」でも「三国之見龍卸甲」でも僕いっつも「面白かった」しか言ってないですけど、これも本当に面白かった。見どころがたくさんありました。

 見どころのひとつ目は、言わずもがなですけどアクションシーンです。
 と言っても僕は中国映画ニュービーですし、アクションのことは全然わかんないですし。ドニー・イェンも初めて知ったくらい。
 だから、どこがどうすごいかはもちろんわかんないんですけど、ただただ圧倒されました。そんな動きさせちゃうんだって、ただびっくりしてました。
 僕的なベストバウトは、やっぱ五関の初っぱなを務めた孔秀戦です。こんな強い孔秀見たことない。でももちろん、五関のどれも面白かったです。どうしてもワンパターンになりがちな5つの戦いをきっちり差別化してました。
 そう、孔秀と言えば、彼の口元の傷跡がなんかかっこよくて印象的だったんですけど、あれメイクじゃなくてホンモノなんだそうです。孔秀を演じたアンディ・オンがかつて「三国之見龍卸甲」に鄧芝役で出演したときに北伐で趙雲に従って曹操軍と戦ったときに、敵兵の大刀が直撃してできた傷なんですって。あのやたらワイルドだった鄧芝と同じ俳優さんだったとは気づかなんだ。

 見どころのもうひとつは、関羽をとりまくキャラクターたち。献帝とか綺蘭とか普浄とか。
 ネットだと、「曹操張遼がカッコよくてよかった」とか、「曹操関羽のラブストーリーがよかった」とかって感想をよく見ますけど、僕は正直、曹操についてはそんなに響かなかった。『演義』のなかで曹操が一番よく描かれてるのがこの「五関斬六将」なんで、当然こうゆう曹操関羽の「義」の最大の理解者)になるでしょう。吉川英治も「恋の曹操」って言ってるし。だからあんま新鮮味はなかったです。逆に言えば、そうゆう『演義』をきっちり踏まえてるってことでもあります。
 それに、「レッドクリフ」や「三国志 three kingdoms」しかり、やっぱ今どき曹操をただの悪役にするってのは中国でも流行らないんだろうなって思います。

 それよか、僕がびっくりさせられたのは献帝のキャラクターでした。
 これ、観た人にすごい聞きたいんですけど、一体どの時点で献帝が黒幕だと気づきましたか?
 僕はまず、序盤で孔秀が関羽暗殺の勅命を受け取ったその時点で、もう混乱しました。献帝がそんなこと命じるはずないからこれは当然偽勅のはず。ということは曹操が黒幕か。でも原典を考えれば曹操が黒幕なんてのはやっぱあり得ない。
と思ったら中盤で曹操が容疑者から外されて。いよいよもって献帝が黒幕っぽそうな仄めかしがされて、でもやっぱり漢王朝関羽の命を狙うなんてシナリオはもっとあり得ないはずだから、献帝黒幕と思わせといてもう一段どんでん返しがあるはず・・・。
 ってな具合だったので、ラストでマジで黒幕は献帝と明かされたときは、そりゃもう度肝を抜かれました。最期までマジで気づかなかった。
 「曹操関羽の最大の理解者」、「漢と関羽は一体で不可分」という『演義』の大前提を利用した、絶妙なミスリードだったと思います。思いたい。 

 そんなわけで、とにかく僕は献帝の扱いに度肝を抜かれました。
  関羽「愚かな君主め!殺してやる!」
  曹操「約束する。天下を平定したら、私がこいつを殺す!」
 もう最初に観たときはひっくり返って爆笑しました。
 献帝の不遇は、たぶん上で書いたような脚本上のしかけのせいだと思いますけど、それでも本作に限らず最近の作品だと献帝の扱いはあんまよくないですよね。というか漢そのものの扱いが悪い。
 それは、漢の敵対者である曹操が人気なせいってのもあるでしょう。中国人は曹操を改革者として強調したがるから、どうしても献帝は旧弊にしがみつく、「封建的」な、ダサい暗君になりがちです。映画「曹操暗殺」がまさにそんな感じでしたね。
でもそういう相対的な理由だけじゃなくて、漢っていう言葉の説得力が落ちてるんだろうなって思います。漢と言えばそれだけで正義を意味した時代は昔のこと。漢室再興を唱えさせればそれだけで善玉になれた劉備が、今はもうそれだけじゃ通用しないですもんね。

 見どころの最後のひとつは、ドニー・イェン演じる関羽のキャラクターです。
 ドニー・イェンじゃ関羽にしては小柄だし、途中からトレードマークの髯もなくなるしで、ファンからの評判はあまりよくないみたいすけど。
 僕はビジュアル的なところは全然気にならなかったっすけど(とゆうか、髯がなくなることも気づかなかった)、
 ただ、この関羽は僕が知ってる中で一番強くない関羽でした。
 『演義』の関羽は、物語中でもっとも強い存在として設定されてます。もちろんそれは腕っぷしの強さなんてのじゃありません。関羽は「義」において一切のブレを見せず、どんな時も「義」を貫き続けます。そんな「義」を貫く姿は、「義を見て為さざるは勇なきなり」の言葉通り、強さを伴います。関羽は絶対に迷いません。「義」という絶対の価値観の体現者そのものだからです。
 でも本作は、関羽が迷い続ける物語です。自分が果たしたい義と、欲望と、あと民の平和との狭間で、自分がどうあるべきかと最期まで問い続け、しかも最期でも答えを出せてない。民のためとはいえ劉備を棄てようとするとか、惚れた綺蘭のために皇帝を殺そうとするとか、ちょっと関羽とは思えないです。
 それに、周囲のキャラクターがみんな関羽につらくあたるのが面白いと思いました。バカな献帝はもちろんのこと、義兄弟の韓福や、関羽に命を救われた秦琪もが関羽と敵対する。仁徳篤い王植すらも関羽の義を信じない。綺蘭は関羽を誘惑してその道を阻もうとする。滎陽の民は関羽に石を投げつける。おそらく劉備も、関羽を信じ切ってはいない。
 しかし関羽と対立する彼らは、決して「悪人」じゃありません。これが『演義』だと、善人=関羽の味方、悪人=関羽の敵っていうすごく単純な構図になるんですけど。これは『演義』が生前の関羽をも「すべての善人に慕われる神」として描き出すためです。でも本作の関羽はまだ神になる前の、生身の人間に見えます。
 実際、監督はDVD特典のインタビューで、「第一に考えたのは関羽のイメージを壊すこと」「関羽という人間の迷いや苦悩にも注目してほしい」って言ってます。現代のエンターテイメントとして面白さと深みを与えるために、関羽の孤独と苦しみと弱さはきっと不可欠だったのでしょう。関羽は神の座から降ろされたわけです。
 それでも、本作を観ている限りではそんな関羽のキャラクターにもあんま違和感を覚えませんでした。たとえ『演義』の関羽とは全然違っていても、少なくとも作中での関羽像にブレがなかったからだと思います。それはつまり、『演義関羽から非常に丹念に神様要素を抜いていたってことです。「義」を貫き通す強さ、万人からの無条件の思慕、劉備との絶対の信頼関係などなど、関羽を神たらしめている要素をひとつひとつ丁寧につぶしてました。つぶしのこしがないからキャラクターにちぐはぐさがない。かと言ってやりすぎちゃって関羽関羽らしさまでつぶしたら、それはただのドニ―・イェンが映るだけの映画になっちゃう。その線引きもうまいと思いました。
 関羽という扱いづらい神さまをアクション映画にお招きするにあたって難儀な交渉を重ねたんだろうなっていうのを窺わせる、そんな映画でした。