2011-06-03から1日間の記事一覧
前記事で見た通り、『後漢書』趙典伝は、彼の最期を「(国師に推されたが)たまたま病死した。諡して献侯」と書いています。 しかし同伝李賢注に引かれる謝承『後漢書』が、「竇武、王暢、陳蕃らと宦官誅滅を図るも、失敗して獄に下され、自殺した」と真逆の…
「趙典は字を仲経、蜀郡成都の人。父の趙戒は太尉となり、桓帝擁立によって廚亭侯に封じられた。」*1 清流人士の筆頭グループ、八俊の第七位、趙典の列伝はこの様な書き出しで始まります。 范曄が趙戒を「糞土の如し」と書いたことは先日の通りであり、それ…
桓帝の初期、親梁冀の権道派としてデビューした趙典でしたが、父と梁冀が世を去ると、次第に清流派官僚の片鱗を見せ始めます。 特にその桓帝代後半に出された、皇帝の恩寵によって諸侯となった者を非難する上奏が印象的です。表向きは功無き者が諸侯になると…