五胡六朝
訒攸字伯道、平陽襄陵人也。 ……永嘉末、沒于石勒。……石勒過泗水、攸乃斫壞車、以牛馬負妻子而逃。又遇賊、掠其牛馬、歩走、擔其兒及其弟子綏。度不能兩全、乃謂其妻曰、吾弟早亡、唯有一息。理不可絕、止應自棄我兒耳。幸而得存、我後當有子。妻泣而從之、乃…
建興四(316)年、長安が異民族によって陥落すると、西晋の皇帝である愍帝もまた捕らえられます。 愍帝は虜囚として屈辱を味わわされた挙げ句、翌年、弑逆されました。 そんな愍帝の最期について、『太平御覽』に引かれる逸文では、こう書かれます。 許肅…
僕は、曹植は神仙的要素には否定的だったとイメージしてました。 裴松之注に引かれる曹植『辯道論』に、こんな文章があるからです。 東阿王作辯道論曰、世有方士、吾王悉所招致、甘陵有甘始、廬江有左慈、陽城有郤儉。始能行氣導引、慈曉房中之術、儉善辟穀…
搜神記曰、……漢世西域舊獻此布、中間久絶、至魏初、時人疑其無有。文帝以為火性酷烈、無含生之氣、著之典論、明其不然之事、絶智者之聽。及明帝立、詔三公曰、先帝昔著典論、不朽之格言、其刊石於廟門之外及太學、與石經並、以永示來世。至是西域使至而獻火…
長い分裂時代をへて久しぶりの長期統一国家となった唐では、自分たちがどの国家を継承しているかについてしばしば議論になったと聞きます。 そのことが二王三恪の制にも表れています。 (天寶)七載五月……以 魏、周、隋為三恪。 九載……、九月辛卯、以商、周…
しかも晋の帝室司馬氏とも間接的な姻戚関係にあります。
絓字仲豫、儉之子也。儉早卒。絓年十二、能說春秋。家貧無書、毎之人輭、所見篇牘、一覽多能誦記。性沈靜、美姿容、尤好著述。靈帝時閹官用權、士多退身窮處、絓乃託疾隱居、時人莫之識、雖從弟紣特稱敬焉。初辟鎮東將軍曹操府、遷黄門侍郎。獻帝頗好文學、…
荀紣について、以前から気になっていた表現がありました。 荀邈字景倩、潁川人、魏太尉紣之第六子也。 ―唐修『晋書』巻三十九 荀邈伝 荀粔字景猷、潁川臨潁人、魏太尉紣之玄孫也。 ―唐修『晋書』巻七十五 荀粔伝 建安年間に死没したはずの荀紣が「魏の太尉」…
『三国志』裴注でもよく見る干宝『捜神記』は、唐修の『隋書』経籍志では史部の雑伝に分類されています。他では劉向『列女伝』や習鑿齒『襄陽記』や慧皎『高僧伝』などなどが載せられている部分です。 『旧唐書』経籍志でも同じく史部にありましたが、これが…
中村圭爾先生の「魏蜀正閏論の一側面」(『六朝政治社会史研究』(汲古書院、2013)収録)を読んだ感想であります。 習鑿歯『漢晋春秋』の蜀漢正統論は、『四庫提要』が言うように蜀漢と同様に亡命政権を建てた東晋の正統性を主張するため、と解釈されて…
以前にひろおさんに教えていただいた話を、改めて自分用にまとめました。 尹勳、字伯元、河南鞏人也。家世衣冠。伯父睦為司徒、兄頌為太尉、宗族多居貴位者、而勳獨持清操、不以地埶尚人。州郡連辟、察孝廉、三遷邯鄲令、政有異迹。後舉高第、五遷尚書令。及…
先日の雲子さんの牛金毒殺の記事から、twitterで派生した話題に関連しまして、「東晋元帝は牛氏の出身である」という説話が正史資料でいかなる変遷をたどっていたか、資料の成立順にまとめてみました。 ○王隠『晋書』(『太平御覧』巻七六一引) 宣帝 既に公…
wikipedia「曹奐」や「魏 (三国)」には、曹魏の末裔として以下の様な説明がされています。 479年、蕭道成が宋から禅譲を受け斉となったが、蕭道成に禅譲を勧める上奏に、陳留王の曹粲が名を連ねている。同年8月、王位を除かれた。 曹氏の末裔が晋王朝・宋王…
昨夜ウィキをだらーっと見て、初めて知りました。 wikipedia‐「劉備」 「烈祖」って言うんですって! 中文ウィキにも同じように書かれていましたが、知りませんでしたー(゚Д゚;) よりによって曹叡とおな その出典についてウィキは「『晋書』「巻百 列伝第七十 …
問題です。 いわゆる三国時代の人物で、司空などを歴任し、その子孫が皇帝になったのは誰でしょう?
太祖高皇帝、諱は道成、字は紹伯、姓は蕭氏、小諱は鬬將。漢の相國蕭何の二十四世孫なり。(『南斉書』高帝紀) 蕭何の子孫だったんですねー。 てことは劉邦の王朝は、一度は曹参の子孫に、二度目は蕭何の子孫に滅ぼされた訳ですね (´・ω・)カワイソス
高祖武皇帝、諱は裕、字は紱輿、小名は寄奴、彭城縣綏輿里の人、漢の高帝の弟楚元王交の後なり。 交は紅懿侯富を生み、富は宗正辟彊を生み、辟彊は陽城繆侯紱を生み、紱は陽城節侯安民を生み、安民は陽城釐侯慶忌を生み、慶忌は陽城肅侯岑を生み、岑は宗正平…
(元熙二年)劉裕(恭)帝を以て零陵王と為し、秣陵に居せしむ……、裕は后兄叔度をして后に有間を請わしめ、兵人垣を踰えて入り、内房に帝を弒せしむ。時年三十六。諡して恭皇帝。(『晋書』恭皇帝) 宋の武帝劉裕は、曹丕・司馬炎の例に従い、位を譲った恭帝司馬徳…
劉聡の建元元年正月、流星が平陽の北十里に落ちた。 それを見れば"肉"で、その臭いは平陽まで届き、哭き声は昼夜止むことがなかった。 数日後、皇后の劉娥が蛇と虎を産んだ。二匹は暴れまわって逃げ出したが、その後"肉"の傍らで見つかった。 この時、劉聡は…
劉聡の妻の劉娥は字を麗華といい、太保劉殷*1の娘である。劉聡は召して右貴嬪として甚だ寵愛した。劉娥は皇后を拝し、……薨去するに及び、武宣皇后と諡された。 その姉妹の劉英は字を麗芳といい,劉娥と共に召されて左貴嬪を拝した。武徳皇后を追諡された。 ―…
皇后の劉氏は病が篤くなると、泣きながら「妾の叔父劉昶は子がなく、妾を幼い頃から養ってくれました。今その恩に報いたく思います。また妾の叔父劉皚の娘の劉芳は徳色が備わっておりますので、願くば彼女を後宮に入れていただけますよう」と訴えた。言い終…
司馬晋の諸侯王一覧 八達編、宣文帝編、武帝編、東晋編の4つがあります。 またオマケにこれまでに作った東漢〜三国の諸侯一覧もまとめました。 しかしなにせ諸侯の数も多いわ、両晋の期間も長いわ、一方で1年未満の諸侯もいるわなど、大変複雑でしたので少…
ここのところ王朝の賓客について書いていたところツイッターでT_Sさんに"三恪"について教わりまして、とても興味深かったので正史から適当に三恪について探してみました。 なお三恪二王については「解体晋書」さんの明帝紀に以下のような注釈がありました。 …
適当に北部尉に任じたり、 ベットごと引きずりだしたり、 つい左遷しちゃったり、 思わずクーデターして、 逆に弑殺されて、 ムリヤリ禅譲なんてこともあったけど、 (元熙二年)晉帝は王(劉裕)に禪位し……是において陳留王虔嗣等二百七十人、及び宋臺羣臣、並…
魏帝を封じて陳留王と為し、邑萬戸、鄴宮に居す(『晋書』武帝紀) 帝(曹奐)を封じて陳留王と為す。年五十八、大安元年に崩ず、諡して曰く元皇帝。(『三国志』陳留王紀注引『魏世譜』) *1 265年。曹奐は晋王司馬炎に禅譲。即位した司馬炎は漢魏の例に従って…
wikipedia「范曄」よりの引用です。 范曄は無神論者だった。『後漢書』の中で、彼は人に諂う仏を猛烈に非難した。仏教をおかしいと思い、特に神が不滅であるという説と因果応報の説法を潔しとしなかった。そして仏教を信じる後漢の桓帝 (漢)にきつく風刺を行…