三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

後漢

蜀郡趙氏D-2 【趙温②】

趙温が司徒に就任した翌年、李傕と郭艴の抗争が本格化し、三公以下重臣はその火消しに奔走することになります。趙温もまた傍観していなかったようです。 それは李傕が献帝拉致を謀った時、趙温はきわめて強い言葉でそれを諫めます。それを渡邉先生の翻訳で引…

後漢の皇(帝)号追贈

『後漢書』本紀を流し見ただけなので、もっといっぱいあれば教えてください! 【安帝】 清河王慶(父)・・・孝徳皇*1 【桓帝】 蠡吾侯翼(父)・・・孝崇皇 河間王開(祖父)・・孝穆皇*2 【霊帝】 解瀆亭侯萇(父)・・・孝仁皇 解瀆亭侯淑(祖父)・・孝元皇*3 なぜ…

益州益州郡

こちらのコメントにも同じことを書いていますけど! 「てぃーえすのワードパッド」劉巴を殺そうとした人 自分、益州って名前の郡が益州にあることを初めて知りました! T_Sさんと雲子さんが"益州太守""益州郡"言ってるのを見て、え、なに・・・?と思いまし…

新王朝代の趙王

センセーショナルなタイトルをつけんとす。 王郎を担ぎあげ、河北で光武帝と凌ぎを削った、自称趙王 劉林にまつわる与太話です。 彼の肩書の怪しさについては、やる夫さんとこにも書いてありましたのでぼくもそうらしいってことは知ってました。 詳しくは、…

本籍地で県長に

岑彭字君然,南陽棘陽人也。王莽時,守本縣長。(『後漢書』岑彭列伝) 雲台二十八将の第六席として有名な阿部さん岑彭です。 きっと緊急時の代行だったからと思いますが、本籍地の長になるなんてこともあるのですね。それとも本籍地を避けることはもう少し後…

三恪二王

ここのところ王朝の賓客について書いていたところツイッターでT_Sさんに"三恪"について教わりまして、とても興味深かったので正史から適当に三恪について探してみました。 なお三恪二王については「解体晋書」さんの明帝紀に以下のような注釈がありました。 …

その後の漢帝

黄初元年十一月癸酉、河内山陽の邑万戸を以て漢帝を奉じて山陽公と為す。(『三国志』文帝紀) (青龍)二年……三月庚寅、山陽公薨ず……山陽公に諡して漢孝獻皇帝と為し、漢禮を以て葬す。(『三国志』明帝紀) 劉協についてはもう皆さんご存知の通りかと思います。*…

みたび東海王

すみません、まとまりなくて。また東海王です。『後漢書集解補』の方を読み忘れてしまってまして。ただ結論は前記事前々記事とほぼ変わりありません。 昨日の銭大繒の解釈に対して『後漢書集解補』に引かれる侯康が反論をしており、そこでまた新たな東海王の…

ふたたび東海王

まず昨日書きました東海王の重複についてですね。今日大学でちゃんと調べて来ましたよ。 三国与太噺「東海王重複」 ひとつめ、『後漢紀』を読んでみた所こちらは『後漢書』と同じく「敦為東海王」とありました。東海王劉羨に関しては記述なし。 もうひとつ『…

東海王の重複

てぃーえすさんとこの読んでたら思い出しました。 てぃーえすのワードパッド「東海王」 祗立四十四年薨,子蚸嗣.二十年,魏受禪,以為崇紱侯.(『後漢書』東海恭王彊伝) 五年春正月…東海王祗薨. 九月庚戌,立皇子熙為濟陰王,懿為山陽王,邈為濟北王,敦為…

やる夫が光武帝になるようです 

ネットにおける中国史関係では大変有名なスレだと思います。ぼくが初めてウワサを聞いたのは最終回間近の春ごろでしたけど。 昨日夜の1時からぶっ通しで読んでしまいました。 大変感動した! 思わず亀茲から班超へ降りそうになるくらいにッ! すごいセンス…

劉備と推恩の令

もう半年も前のてぃーえすさんとこの記事ですが、ちょうどこの前読んだ本に関連することが書かれていましたんで。 http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100410/1270872967 先主姓劉,諱備,字玄紱,涿郡涿縣人,漢景帝子中山靖王勝之後也.勝子貞,元狩六年封涿縣陸…

曹操政権の諸侯王政策

是歲、立故琅邪王容子熙為琅邪王。齊、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、濟北、平原八國皆除(『後漢書』献帝本紀 建安十一年) 諸侯八カ国の一斉除国。 この当時まだ存在していた諸侯王国の数、十六。つまり実にその半分までもが一挙に除かれてしまったわけです…

匈奴産 【劉騊駼】

匈奴、其先祖夏后氏之苗裔也、曰淳維。唐虞以上有山戎、獫狁、葷粥、居于北蠻、隨畜牧而轉移。其畜之所多則馬、牛、羊、其奇畜則橐駞、驢、驘、駃騠、騊駼、驒騱。逐水草遷徙 集解徐廣曰「似馬而青。」 索隱按:郭璞注爾雅云「騊駼馬、青色、音淘塗」。又字…

黄巾に負けた王様たち

・安平国の場合 子續立.中平元年,黄巾賊起,為所劫質,囚于廣宗.賊平復國.其年秋,坐不道被誅.立三十四年,國除(『後漢書』樂成靖王黨列伝) 明帝系統の安平王劉続。安平国は冀州です。 捕虜になるものの黄巾平定後に帰還します。が、その年のうちに大逆…

後漢初の諸王

丙辰,詔曰:「長沙王興、真定王得、河間王邵、中山王茂,皆襲爵為王,不應經義.其以興為臨湘侯,得為真定侯,邵為樂成侯,茂為單父侯.」其宗室及絕國封侯者凡一百三十七人.丁巳,降趙王良為趙公,太原王章為齊公,魯王興為魯公.(「光武帝紀下」建武十三…

曹魏爵制に関する二三のわかんないこと

こちらの資料も参照ください。 ☆本日の参考文献☆ ・渡邉義浩「西晋における五等爵制と貴族の成立」(『史学雑誌』116-3、2007) ・守屋美都雄「曹魏爵制に関する二三の考察」(東洋史研究20-4、1962) まず魏晋以前の漢代の爵位からですが、これは有名な二十等爵…

高陵亭族 【曹純】

曹純、あざなを子和。 曹仁の同母弟として有名ですねー。 十代で父の家を継いだが、家をよく保ったために称賛された。十八歳で黄門侍郎、二十歳で曹操に従い議郎参司空軍事となった。精鋭虎豹騎を率い、河北戦で活躍。袁譚を討ち、搨頓を生け捕った。荊州攻…

前後の劉氏

「いつか書きたい『三国志』」―劉焉と劉表は、帝位を称した「てぃーえすのワードパッド」―後漢末の劉氏についての戯言 この話、ぼくにも心当たりがございます。 「お忘れかい阿備。おまえのお父様も、お祖父様も、おまえのように沓を作り蓆を織り、土民の中…

この記事を編集したやつちょっと来や…来てください

wikipedia「范曄」よりの引用です。 范曄は無神論者だった。『後漢書』の中で、彼は人に諂う仏を猛烈に非難した。仏教をおかしいと思い、特に神が不滅であるという説と因果応報の説法を潔しとしなかった。そして仏教を信じる後漢の桓帝 (漢)にきつく風刺を行…

荀或その死の謎

ちょっと過去の記事をトラックバックさせていただきました。 『花郁郁たる高陽里』様、「ありがとう汲古書院の後漢書、そして東海大!」より引用です。 http://gaoyangli.blog79.fc2.com/blog-entry-63.html 荀或の死の謎は三国志ファンにかなり人気があると…

蜀郡趙氏? 【趙瑾】

『後漢書』霊帝紀に気になる人がいたので。 中平五年(188)十一月、巴郡の板楯蛮が叛き、上軍別部司馬趙瑾が平定した、と。 残念ながら彼の登場はこれっきりなので正体は不明です。でも巴郡や蜀郡など、益州諸郡には広く趙氏の大族がいますので、その辺の人か…

戯姓? 【戯子然】

戯子然。『後漢紀』の桓帝紀にのみ僅かに名前が見られる人。 なんか仁侠に関する論文に引用されるのを見つけた。 曰く、戯子然は北海の人で、党錮の禁を逃れてきた張倹を匿った、とか。 論文さんが言うところには、地方の有力豪族くらいの人物だろうと。張倹…

弩があったから 【劉寵】

後漢の諸王の中では比較的知られていながら、ウィキペディアには立伝されず、やっぱりマイナーなんだね、仕方ないね。 劉寵さんです。 ぼくもこの前『続後漢書』を見るまで知らんかった。渡邉先生訳を参考に『後漢書』孝明八王列伝より拾い読み。 ・陳国は明…