三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

弩があったから 【劉寵】

後漢の諸王の中では比較的知られていながら、ウィキペディアには立伝されず、やっぱりマイナーなんだね、仕方ないね。
劉寵さんです。
ぼくもこの前『続後漢書』を見るまで知らんかった。

渡邉先生訳を参考に『後漢書』孝明八王列伝より拾い読み。


・陳国は明帝の子劉羨からはじまる。劉寵はその曾孫にあたる。諡を愍王という。

・熹平二年(173)、陳国相の師遷が、前陳国相魏音(本来は立心偏)が劉寵と共に天子の祭祀を勝手に行ったと上奏した。しかし霊帝勃海王を誅殺したばかりだったので、陳王も罪とするのをためらった。そこで中常侍王甫に取り調べさせたところ、魏音は陳王が奉ったのは黄老君であり、長寿の福を求めただけだと釈明した。結果、魏音を輔導を怠った罪、師遷を誣告の罪で誅すべきと上奏した。劉寵は罪に問われなかった。

・劉寵は弩に秀でており、十発十中、矢は同じ場所に当たった。さらに強弩数千張を所持していた。

・黄巾が蜂起すると、劉寵は都亭に出陣した。国人らは王の射撃を知っていたので敢えて背かなかった。そのため陳国は被害がなく、十余万の人々が身を寄せた。

献帝のはじめ義兵が決起すると劉寵も兵を率いて陽夏県に駐屯し、自ら輔漢大将軍を称した。

・国相の駱俊の輔政により乱世にあっても国を保った。

・揚州の袁術からの支援要請を断ったために、袁術は刺客を使って劉寵と駱俊を暗殺した。


ただ射術の奥義を修めたために、黄巾を鎮め、反董に名を連ね、袁術でさえまともにぶつかることはできなかった。

建安元年、曹操袁術配下の陳国相袁嗣を降した。