三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

樊の安公 【曹均】

 曹均。曹操庶子のひとり。同母の兄弟姉妹は特になし。
 生年不明ですが、経歴から推測するに190年代前半には生まれていたと思います。曹丕四兄弟とそう年も離れていません。
 「武文世王公伝」における兄弟の序列は母親の地位と身分に拠っているとのことですので、それに従うと曹均は二十五人中の二十二位。母の周姫はおそらく愛妾のひとりってところでしょう。かなり格下です。


 その身分の低さが理由かは分かりませんが、曹均は叔父の薊公曹彬の跡を継いでいます*1
 217年、樊侯に封建。
 217年とはご存じ曹丕が太子に指名された年でして、これにより曹均を含め兄弟全員が列侯に封じられました。ちなみにこの時が初封なのは曹整、曹均、曹徽、曹茂、曹宗*2、曹敏*3の六人ですが、曹敏って曹均の実子なんですよ。親子で同時に封建されたってことですね。珍しい。


 そして219年、曹均逝去。諡して安公。子供は曹抗と曹敏と曹琬。
 結局曹均自身の経歴といえば、養子に出て、爵位を賜って、薨去、だけです。ですけど曹均が面白くなるのはその死後からで、その子孫は実に三王家一公家にまで拡大します。



(1)屯留公家
 曹均本家と言いますか、曹均を継いだ曹抗は222年に公爵に昇格、翌年屯留公に封じられます。237年に曹抗が死ぬとその子の曹譛が継ぎました。魏滅亡まで存続し、食邑は千九百戸。
 屯留公家の特徴は、なんと言っても在位期間の長さですね。223年以降一度も改封されることなく2代43年、これに匹敵するのは曹玹系統の済陽公家のみ*4曹植など、転封を繰り返された王族は少なくありませんし、そういう意味で屯留公家は気兼ねのない家系だったんですかね(笑
 あと屯留公家は諸侯の中でも数少ない、王位を全く贈られなかった家系でもあります。曹均本人が封王になれないのは勿論、公から王に昇格することもなく、死後の追贈さえありませんでした。爵位的には宗族で最低ランクの家系なのです。


(2)琅邪王家
 曹均系でもっとも華やかな系統ですね。
 曹敏は、曹均存命の217年で既に叔父曹矩の養子として臨晋侯に封じられます。初封が父と同年(笑)
 224年に范陽王、226年に句陽王に改封、琅邪王に232年。養子封建でここまですんなり王位を与えられている人も他にいませんね。曹奐の時代に曹敏は死去、その子曹焜が継ぎました。食邑は三千四百戸。


(3)文安王家
 曹賛は(2)の琅邪王曹敏の子でして、曹丕の子曹蕤を継ぎました。曹蕤はこの記事で述べている通り、曹丕の系統の中でもかなり格上の系統です。何故こんな名門に曹均の系統が養子に出されたかわかりませんが、時代の流れが違っていたら皇帝候補になっていたかもしれませんね。
 234年に養子となって昌郷公、238年に饒安王、246年に文安王、で魏晋革命を迎えます。食邑三千五百戸。


(4)豊王家
 最後は曹琬の豊王家ですが、よりにもよって、曹昂の系統です
 221年に曹琬が曹昂の養子になり、222年中都公、翌年長子公、254年にやっと豊王。魏末に亡くなって子の曹廉が継承。食邑二千七百戸。


 ご存じの通り曹昂は197年に南陽張繍に攻め殺されました。
 その張繍の娘が、曹均の妻なのです。つまり曹均は舅が殺した兄へ養子を出した訳で、曹昂から見れば自分を殺した男の孫を養子に迎えた訳です。『集解』はこれを「顛倒錯乱、匪夷の考え」と批難しています。
 しかしよもや、外祖父が殺した相手の家を継ぐなんてことは・・・。嫁が張夫人、息子が曹琬というだけで、張夫人と曹琬の親子関係は不明ですし。
 ところが曹操は張済妻―いわゆる雛氏を妻に納めてますし、曹均が死去した219年とは義兄張泉が魏諷の乱により処刑された年であり、曹氏と張氏は結構関係が深いんです。





 曹均自身は兄弟の序列も低く、魏王朝以前に亡くなる、地味極まりない人です。
 なのにその養父なり、妻なり、子孫なり、彼の周辺だけが妙に興味深い、不思議な人物なのです。

*1:この曹彬、県公を追贈されるくらいなのですからよほど曹操に近しい血族なんでしょうが、しかしどんな理由でも、諸皇子以外で公爵以上に封建・追贈された例は、宗室では曹彬ひとりしかおりません。曹操の兄弟だとしても、何らかの理由によって曹彬は特別扱いだったようです。

*2:曹拠の子で曹沖の後継養子

*3:曹均の子で曹矩の後継養子

*4:221年、済陽侯に封じられた時から数えるとさらに二年延びて最長になります。曹魏を一貫する唯一の家柄ですね。