三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

曹魏爵制に関する二三のわかんないこと


こちらの資料も参照ください。


☆本日の参考文献☆
・渡邉義浩「西晋における五等爵制と貴族の成立」(『史学雑誌』116-3、2007)
・守屋美都雄「曹魏爵制に関する二三の考察」(東洋史研究20-4、1962)




まず魏晋以前の漢代の爵位からですが、これは有名な二十等爵制です。
下から並べますと、
公士・上造・簪裊・不更・大夫・官大夫・公大夫・公乗(民爵ここまで)・五大夫・左庶長・右庶長・左更・中更・右更・少上造・大上造・駟車庶長・大庶長・関内侯・列侯
渡邉先生の論文によれば、この二十等のさらに上位に諸侯王が、また『白虎通』爵に基づけば天子までもこの爵制に収めることができるそうです。
一般庶民にも賜爵が行われ、かつ皇帝で諸侯王である劉氏をもひとつの爵制に収めたことを渡邉先生は「漢の二十等爵制は、個別人身的支配という支配理念の爵制的表現であった。そこでは、天子も官僚も庶民も奴隷も*1、すべて天子を頂点とする一つの爵制的秩序により国家的身分制に編成される」とまとめています。
その漢代の二十等爵に対し、曹魏は周の五等爵制を取り入れた独自の爵制を施行しました。

其後定制、凡國王、公、侯、伯、子、男六等,次縣侯,次郷侯,次亭侯,次關內侯。又置名號侯爵十八級,關中侯爵十七級,皆金印紫綬。關外侯爵十六級,銅印龜紐,墨綬。五大夫十五級,銅印環紐,亦墨綬。(『通典』職官典)

(建安二十年)冬十月,始置名號侯至五大夫,與舊列侯、關內侯凡六等,以賞軍功。(『三国志武帝紀)

置名號侯爵十八級,關中侯爵十七級,皆金印紫綬;又置關內外侯十六級,銅印龜紐墨綬;五大夫十五級,銅印環紐。(『三国志武帝紀注引『魏書』)

以上をまとめますと、
曹魏爵…王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯・亭侯・関内侯
官爵…名号侯・関中侯*2・関外侯・五大夫
民爵…公乗・公大夫・官大夫・大夫・不更・簪裊・上造・公士
すなわち周代の五等爵に漢代の王を加えて、そして秦漢代の列侯を細分化した県侯・郷侯・亭侯・関内侯の四つを合わせた十等が曹魏独自の爵制である、と守屋先生はしています。
しかしせっかく新たに施行された曹魏爵ですが、このうち五等爵以上は宗室のみに適用され、しかも両論文によれば実際は「王・公・侯」までしか使われた例がない。「伯」以下に関しては守屋先生が『三国志』文帝紀の「初制封王之庶子為郷公,嗣王之庶子為亭侯,公之庶子為亭伯」から、郷侯の庶子を「子」、亭侯の庶子を「男」と規定していた可能性を指摘し*3、一応は五等爵が存在したのだろう、としています。
また守屋先生は『三国志』武文世王公伝から「宗室が低きは亭侯・郷公より始まって、順次、侯→公→王と進爵されるさまが書かれている」「かれらと雖も、初めは亭侯・郷侯・侯の道を経たのであって、その辺の爵に在る限り、異姓の臣下と同じ爵級を踏んだのである」としています。


しかし以上の説には未解決・疑問点があります。
まず王・公・侯までしか実際に使われた例がないとされている五等爵ですが、宗室において五等爵の「侯」が使われた例も非常に限られており、そのほとんどが建安年間、あるいは黄初の初めの頃のみ、曹魏爵が制定されたと考えられる黄初三年*4以降に限れば、わずかに曹壱・曹範・曹敏の三例に留まります。特に曹敏のように建安年間から継続している者を考えれば、黄初三年に平氏侯、翌年に成武侯に封じられた曹範が侯爵唯一の例となり、実質は「侯」においても「伯」以下同様にその実在が曖昧です。同様に守屋先生がおっしゃる進爵のような事例も、少なくとも『三国志』からは読み取れず、おそらく建安年間の爵位と混同しておられるのではないでしょうか?
もう一点の疑問が亭侯・亭伯の位置づけでして。
『通典』よれば亭侯を五等爵の下位に置いています。ところが守屋先生は「亭侯たるものの庶子が「男」である」との推測を立てています。「男」とは五等爵以外にありませんから、これでは亭侯と男爵の関係が矛盾してしまいます。しかし一方で亭伯を「子」「男」の上位としていますので、どうやら亭伯を「五等爵の伯を細分化したもの」と考えているようです。そうするならあるいは守屋がここでおっしゃる「亭侯」は同様に「五等爵の侯を細分化したもの」なのかもしれません。そうすれば矛盾なくすんなりと読めます。
ぼくが爵位を調べていてもっとも疑問に思う点がここでして、つまり「五等爵の序列はさらに封国の大小で細分化されていたのか」ということです。すると同じ名称の「亭侯」でも五等爵侯爵のそれと列侯のそれとの二種類があったのか。
これに関しては、少なくとも「王」と「公」において実例がわかります。公の場合ですと、曹髦の高貴郷公と曹抗の屯留公ですね。王の場合ですと224年、諸王を郡王から県王に格下げとする勅です。しかし「侯」はどうか。
たとえば、曹沖の後継である己氏公曹宗の例があります。
曹宗は237〜238の二年間だけ、禁止されている器物を作らせたとの罪で、三百戸を削った上で己氏公から都郷侯への降格処分を受けています。これを『通典』のみに当てはめるなら、伯子男県侯をすっとばす公から郷侯まで格下げとなり、食邑にして三百戸の処分としては随分と豪快すぎるように思えます。ここでの郷侯は「五等爵の侯」ではないか。
また『三国志』が規定する「初制封王之庶子為郷公、嗣王之庶子為亭侯」と比べましても、封王庶子は五等爵の範疇である郷公を受け、一方嗣王庶子は旧列侯最下位の亭侯。格差が大きすぎるように思えます。ここでの亭侯も五等爵の細分化ではないか。
曹魏が五等爵を宗族に限っていたことを考えれば、同じ「亭侯」でも宗族の場合は五等爵侯爵の亭侯、臣下の場合は列侯の亭侯、という明確な差別があったやもしれないとの想像も可能でしょう。


…可能ですか?
いや実にややっこしく「二種類の侯」などと仮説を述べましたが、シンプルに考えるなら侯伯子男、てゆうか五等爵なんてなかったのでしょう。渡邉先生も伯・子・男の存在には否定的です。『三国志』三少帝紀に「相國晉王奏復五等爵」て、『晋書』文帝紀には「始建五等爵」てあるし。そもそも『通典』のソースになりそうな記述が『三国志』にないですからねぇ。実際は漢代の列侯・関内侯の上位に宗室限定の王・公を加えた程度だったんじゃないでしょうか?*5
いずれにしても事実上機能していなかったことは間違いないとされる曹魏五等爵ですが、ぼくは名目上でも怪しいものだと思っています。一応亭伯が存在しているのでごく初期にはそういう構想もあったでしょうが、すぐに放棄されたのでしょう。
ではこれほど不完全な五等爵(仮)をそれでも施行しようとした曹魏の意図はなんなのか、ということについては渡邉先生が書かれていました。
第一は政治的な理由。建安年間に曹操が魏公に就任しましたが、公の爵位を用いるために周の五等爵制を復活させる必要があった。
第二に、これこそ爵制改革の本質だとしていますが、「後漢末から三国にかけての「封建」の復権の風潮があった。秦に始めた郡県制では、社会の分権化傾向に対処しきれなくなっていたのである。むろん、郡県制を延命させるために、郡の上位区画である州に州牧を置き、強力な軍政支配を行わせることにより、社会の分権化および治安の悪化に対応しようとする動きも進んでいた。都督の出現もこの延長上に考えることができよう。その一方で、周の五等爵制を復興して、諸侯を封建することにより、社会の分権化に順応しようとする動きも強かったのである」。
では何故曹魏は五等爵制を復興したくてもすることができなかったのか、また司馬晋はそれを施行したためにどのような結果を生んだのか。今後の課題にしたいと思います。

*1:この論文では奴隷は「爵位を持たない」という形で爵制に組み込まれていたと位置付けられています。さらに「士伍」が主に奪爵者に与えられていたことから、これを「ゼロ位の爵」として庶人と奴隷の間のもととやはり爵制の秩序に組み込まれていたとしています。

*2:この名号侯・関中侯は具体例があります。漢魏革命において、漢の諸侯王が新たに崇徳侯に、漢の列侯が関中侯に封じられています。この崇徳侯こそ名号侯のひとつだと守屋先生はしています。

*3:守屋先生は『晋書』地理志から「初制封王之庶子為郷公,嗣王之庶子為侯,公侯之庶子為亭伯」と引き『三国志』と異なるとしていますが、今「漢籍電子文献」で見てきた限りでは『晋書』でも「嗣王之庶子為亭侯」となっていました。

*4:守屋先生は建安二十年頃から独自の爵位が形成されはじめ、黄初三年頃に宗室に五等爵が施行されたとしています。建安二十年は先に触れたように名号侯などが制定された年です。

*5:三国志』后妃伝の巻頭に見られる爵位も諸侯王・県公・県侯・郷侯・亭侯・関内侯です。