黄巾に負けた王様たち
・安平国の場合
子續立.中平元年,黄巾賊起,為所劫質,囚于廣宗.賊平復國.其年秋,坐不道被誅.立三十四年,國除(『後漢書』樂成靖王黨列伝)
明帝系統の安平王劉続。安平国は冀州です。
捕虜になるものの黄巾平定後に帰還します。が、その年のうちに大逆不道ということで誅されました。その顛末は李固伝の李燮の箇所に書かれています。
・下邳国の場合
子愍王意嗣.陽嘉元年,封意弟八人為鄉﹑亭侯.中平元年,意遭黄巾,弃國走.賊平復國,數月薨.立五十七年,年九十.(『後漢書』下邳惠王衍列伝)
明帝系統の下邳王劉意。下邳国は徐州ですね。
こちらは国を捨てて逃亡してます。平定後帰国しますが数ヵ月後に死去。それがなんと九十歳のおじいちゃん!九十まで長生きしてまさかこんな一大イベントに見舞われるなんて、、、
そういえば徐州黄巾といえば、陶謙がこの処理にあたっていませんでしたっけどうでしたっけ?
・常山国の場合
子翬嗣.三十二年,遭黄巾賊,奔國走,建安十一年國除.(『後漢書』淮陽頃王罇列伝)
明帝系統の常山王劉翬。常山国も冀州です。
こいつ、逃げたまんま帰ってないっぽい。建安11年に除かれるまで、王不在の状態が続いたものと思われます。
・甘陵国の場合
子獻王忠嗣.黄巾賊起,忠為國人所執,既而釋之.靈帝以親親故,詔復忠國.忠立十三年薨,嗣子為黄巾所害,建安十一年,以無後,國除.(『後漢書』清河孝王慶列伝)
章帝系統の甘陵王劉忠。甘陵国はもと清河国のことで、これも冀州です。
当時冀州には常山・安平・河間・甘陵・趙の五人の王がいましたが、ここまでの通りそのうち三人が被害を被った訳です。
劉忠もまた捕虜にされた上、世継ぎを殺害されています。そして「霊帝の親故を以て国に復した」ということですので、やはり捕虜にまでされた王には相応の処罰が下るようです。
・濟南国の場合
子贇嗣,建安十二年,為黄巾賊所害.子開嗣,立十三年,魏受禪,以為崇紱侯.(『後漢書』河間孝王開列伝)
章帝系統の濟南王劉贇。濟南国は青州です。
なんと黄巾に殺害されてしまうのですが、これは建安十二年の青州での話。おそらく『三国志』の夏侯淵伝や呂虔伝、臧霸伝などにある事件だと思います。*1
・陳国の場合
寵善弩射,十發十中,中皆同處.中平中,黄巾賊起,郡縣皆弃城走,寵有彊弩數千張,出軍都亭.國人素聞王善射,不敢反叛,故陳獨得完,百姓歸之者眾十餘萬人.(『後漢書』陳敬王羨列伝)
劉寵強すぎワロタw
袁術がなかなか手出し出来なかったのも頷けますね。