三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

劉備と推恩の令

もう半年も前のてぃーえすさんとこの記事ですが、ちょうどこの前読んだ本に関連することが書かれていましたんで。
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100410/1270872967


先主姓劉,諱備,字玄紱,涿郡涿縣人,漢景帝子中山靖王勝之後也.勝子貞,元狩六年封涿縣陸城亭侯.坐酎金失侯,因家焉.[一]先主祖雄,父弘,世仕州郡.雄舉孝廉,官至東郡范令(『三国志』先主伝)



三国志ファンなら知らない人はおらんでしょう、先主伝の冒頭部分です。この「勝子貞,元狩六年封涿縣陸城亭侯」が推恩の令なんじゃねいの?って話だと思います。

・しかし良く考えてみると、劉貞の父は中山王劉勝。もちろん中山国に住んでいた。
・涿は近隣ではあるが、中山は冀州で涿は幽州と州も違う。中山の領内ではなかったのではないかと思われる。
・このいわゆる「推恩の令」は、諸侯王が自分の領地を子弟に分けることを認めたものだと考えられてきたと思うが、そう単純な話でもなさそうだ。
・諸侯王は領地の一部を子弟の封侯のため皇帝に献上して、皇帝はその献上された戸数相当のどこかの集落にその子弟を封侯する、という仕組みだったのかもしれない。

まさにこれにあたることが、鎌田重雄『秦漢政治制度の研究』(日本学術振興会1962)に書かれていました。引用しますと、

諸侯王がその子弟に封地を分与して列侯とすることを願い出れば、朝廷はその封号を定めてやり、そして嫡嗣以外の王子侯の国は改めて漢の郡に所属せしめる(第二篇第三章 漢朝の王国抑損策p217)
嫡子以外の王子侯の国は、父王の王国に属せしめず(第二篇序説)


まさしくてぃーえすさんが記事の最後でおっしゃっていたことですね。
あくまで重要なのは、父王の領国に属させなかったということですが、これは王子侯を父王から切り離し漢王朝の郡の支配下に置くという狙いによるものではありましたが、前掲書はそれ以上にその次の段階、先主伝で言うところの「坐酎金失侯」への布石であるとします。つまり、

武帝は、諸侯王をしてその子弟を封地に分与することを許し、そしてそれら王子侯の封国を漢に所属させることによって一応王子侯を郡県体制の中にくりこみ、しかる後に酎金律によって王子侯国の多くを完全に県化し、かくして王子侯国を中央集権化していったのである(第二篇第三章 漢朝の王国抑損策p223)


酎金律とはちくま注にもある通り、諸侯が中央の祭祀のために献上する金の不足不良をもって武帝が諸侯を大量に改易した政策のことを言います。
本来嫡子以外の相続に関しては「紹封」といい例外的恩恵でしたが、推恩はその紹封を一挙に拡大させるものでした。これによって封じられた王子侯は、この劉勝だけでも合わせて二十。ところがそれは、一度推恩令で漢の郡内に釣り出した王子侯を酎金律で滅ぼすという、推恩酎金セットの諸侯王の削弱政策だったのです。当然除かれた後の国は父王に返還されず漢王朝に還元されるのですから、諸侯王からしたらば推恩を希った分だけ封国を削られた訳です。この劉勝では王子侯二十のうち、十二国が元鼎五年に坐酎金免。その中に劉備の祖先が含まれていたことは言うまでもありません。
日頃当たり前に眺めていた何気ない劉備が、武帝の目玉政策推恩酎金を実演する者だったとは、いやまったく初めて知りました。
( ゚ω゚) なんで授業で教えてくれなかったんだろう、




そして変わって問題は、あちらの記事でコメントされた方がおっしゃっているようにちくまがこれに以下のような注をつけていることなんです。

なお、ここに元狩六年と記すが、『漢書』王子侯表によれば、元朔二年(前127)侯にとりたてられ、元鼎五年(前112)廃されたことになっており、おそらくは誤り。また表によれば陸成侯として陸成県を封土としており、陸成県は中山国に属する。前漢の時代、亭侯は存在しない。したがって、「涿郡」と「亭」の字は誤りであろう。「城」は「成」とすべきである。


問題は後半ですね。てぃーえすさんがコメントでおっしゃっているように、『漢書』地理志には確かに中山国陸成県がありますが、今王子侯表を見ても「陸城侯」であり、特に校勘記もありませんので何故これが陸成侯になるのかちょっとわかりません。
ちくまの注はおそらく『集解』に拠っていると思われ、『集解』が潘眉の説を引いて言うには、「前漢に郷侯亭侯はなく、『漢書』王子侯表によれば劉貞は陸成侯であり、亭の字はない。『地理志』によれば陸成は中山国の県名であり、劉貞が中山王勝の子である故陸成県侯に封じられ、そして成の字に土偏はない」。そして他に引かれる説でも、やはり『地理志』に陸城県がないことを根拠に中山国陸成侯に封じられたと説明しています。
この説が正しいとすると、せっかくの鎌田先生の説が劉備に当てはまらなくなってしまいますし、てぃーえすさんだって「劉貞が侯を奪われたときにその領邑はどうなったのかということを考えると、素直に中山王に返されたとは思えません」っておっしゃってます。が、これに関しては、劉貞の兄弟である安険侯劉応がまさしく中山国安険県に封じられかつ酎金律を受けているという実例がありますので、残念ながらまったく考えにくい、とは言えません。
しかしやはり『集解』が引く説もぼくにはわからない箇所がございまして、
(1)前漢に亭侯はなかったとし、劉貞が県に封じられたことを前提としている
(2)城の字を成の字とする
後者(2)は上で述べたとおりですが、(1)に関しては亭侯の有無のことは不勉強ながら知りません。確かに「郷侯」「亭侯」という言葉が用いられるようになったのは後漢からだそうです。しかし県を食むということを前提とし、一方で『地理志』に陸城がないことを論拠にしていますが、先ほど触れた中山王勝の二十人の王子侯のうち、劉貞を除いても半数の十人がその封国を『地理志』で確かめることはできません。つまり名称として亭侯がないだけで、実際すべての侯国が県を食んでいたかどうかちょっと判断しがたいのですが、、、どうなのでしょうね。