その後の魏帝
魏帝を封じて陳留王と為し、邑萬戸、鄴宮に居す(『晋書』武帝紀)
帝(曹奐)を封じて陳留王と為す。年五十八、大安元年に崩ず、諡して曰く元皇帝。(『三国志』陳留王紀注引『魏世譜』) *1
265年。曹奐は晋王司馬炎に禅譲。即位した司馬炎は漢魏の例に従って曹奐を陳留王に封建します。
曹奐は案外長く生き、302年、八王の乱真っ最中に亡くなります。自分を滅ぼした西晋の滅亡を眺めながら亡くなった訳で、こう、考えるものがありますね。
曹奐の後継に関しては不明で、おそらく山陽公劉秋と同様に、八王の乱・永嘉の乱の中に没してしまったのだろうと思います。
時に325年、東晋の成帝司馬衍の時代に曹魏の祭祀は復活されます。
これは「二王の後」と言う祭祀の礼に基づくものでして、王朝は先代先々代の王朝の末裔を封じてその祭祀を行わせないとならないんです。断絶しちゃった曹魏(´・ω・)カワイソスなんて訳ではなく、東晋として王朝の体裁を整える一環であると言えます。
こうして以後も東晋の「二王の後」として曹魏の系統は続きます。
(升平二年)冬十月乙丑、陳留王曹勱薨ず。(『晋書』穆帝紀)
(興寧元年)冬十月甲申、陳留王世子恢を立て王と為す。(『晋書』哀帝紀)
(太元三年)夏五月庚午、陳留王曹恢薨ず。
(太元八年十一月壬子)、陳留王世子靈誕を立て陳留王と為す。(『晋書』孝武帝紀)
(義熙四年)十二月、陳留王曹靈誕薨ず。(『晋書』安帝紀)
という具合に、408年に曹霊誕が亡くなるまでが『晋書』に書かれています。ちゃんと本紀に。かつての漢山陽公の薨去記事も『三国志』本紀に書かれていました。今では魏陳留王が「二王の後」、記録する場所はもちろん本紀。何故なら彼もまた特別な存在だからです。
しかし魏陳留王の役割は晋王朝が滅んでも終わりません。
(元熙)二年四月、王(劉裕)を徴して入輔せしむ。六月、京師に至る。晋帝は王に禪位し、詔して曰く「……是において陳留王虔嗣等二百七十人、及び宋臺羣臣、並びに上表して勸進す。(『宋書』武帝紀中)
晋宋革命に魏陳留王が立会い、禅譲を進める側として上表しています。これも「二王の後」としての役割でしょうか。
そして宋王朝においても「二王の後」の役目は続きます。
(永初元年)己丑、陳留王曹虔嗣薨ず。(『宋書』武帝紀下)
(大明六年)十一月己卯、陳留王曹虔秀薨ず。(『宋書』孝武帝紀)
(元徽元年)庚午、陳留王曹銑薨ず。(『宋書』後廃帝紀)
と言う訳で劉宋末期の473年まで、曹操から数えて十二代目まで追うことができました。だから裴松之が生きていた時代も、バリバリ曹操の末裔は王位にあったんですね。ちょっと不思議な感じです。
そしていよいよ宋齊革命を迎え、魏陳留王は「二王の後」から外されます。
(建元元年)高帝固く讓し、宋朝王公以下陳留王粲等、門に詣で陳して請えど、帝猶お未だ許さず。齊の世子卿士以下固く請い、……高帝乃ち許す。
……八月癸巳、陳留國を省く。(『南史』齊高帝本紀)
曹丕が220年に即位してより259年後。
ここにようやく曹氏は"皇帝"としてのお役目を終えたのでした。
おつかれさまでした。