三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

420年、最高の友と共に

適当に北部尉に任じたり、
ベットごと引きずりだしたり、
つい左遷しちゃったり、
思わずクーデターして、
逆に弑殺されて、
ムリヤリ禅譲なんてこともあったけど、







(元熙二年)晉帝は王(劉裕)に禪位し……是において陳留王虔嗣等二百七十人、及び宋臺羣臣、並びて上表して(受命を)勸進す。(『宋書武帝紀中)
(永初元年)劉裕は帝(司馬徳文)を以て零陵王と為し、秣陵に居せしむ。(『晋書』恭帝紀)



 420年、晋の恭帝司馬徳文が位を譲ったことにより晋王朝は滅亡します。
 即位した劉裕は「二王の後」の礼に従い、司馬徳文を零陵王、曹虔嗣を引き続き陳留王として遇します。
 こうして曹操司馬懿以来、実に200年以上の腐れ縁はふたり仲良く劉宋の賓客となったのでした。
 曹虔嗣は曹操から数えて十代目。*1
 司馬徳文は司馬懿から数えて十八代目。*2
 お互い漢の臣として始まって、巡り巡って、よくもまぁここまで辿りついたものだと思います。


 さてこの時、荀伯子なる者が面白い上表をしています。*3
 曰く、「二王の後」に関して、現在では「陳留王>零陵王」となっている両者の格を「陳留王<零陵王」とするべしと。
 で、この荀伯子、潁川郡潁陰県の出身なんですね。つまりこの人から直系で七世遡る、祖父の、祖父の、祖父の、父が荀紣なんです。*4
 曹操の末裔と司馬懿の末裔の待遇について、荀或の末裔が上奏をする
 すごい巡り合わせです。





 ちなみに曹虔嗣はこの年420年に、司馬徳文は翌年421年に世を去ってしまいます。
 しかし曹氏も司馬氏も劉宋代は仲良く、賓客としてちゃんと続いていくのでした。


















*1:曹操丕−叡…芳…髦…奐…勱−恢−霊誕−虔嗣。

*2:司馬懿−師…昭−炎−衷…熾…鄴…睿−紹−衍…岳−聃…丕…奕…碰−曜−徳宗…徳文

*3:上表曰:「伏見百官位次,陳留王在零陵王上,臣愚竊以為疑。昔武王剋殷,封神農之後於焦,黄帝之後於祝,帝堯之後於薊,帝舜之後於陳,夏後於杞,殷後於宋。杞、陳並為列國,而薊、祝、焦無聞焉。斯則褒崇所承,優於遠代之顯驗也。是以春秋次序諸侯,宋居杞、陳之上。考之近世,事亦有徴。晉泰始元年,詔賜山陽公劉康子弟一人爵關内侯,衞公姫署、宋侯孔紹子一人駙馬都尉。又泰始三年,太常上博士劉憙等議,稱衞公署於大晉在三恪之數,應降稱侯。臣以零陵王位宜在陳留之上。」從之。(『宋書』荀伯子伝) 

*4:三国志荀紣伝注引『荀氏家伝』によれば、荀紣の子が荀綠−荀甝−荀頵−荀粔−荀羨−?−荀伯子、という親子関係です。
ちなみにこの『荀氏家伝』の編纂者自体が荀伯子です(『新唐書』芸文志四十八 雜傳記類)。
しかも荀伯子と裴松之は同時代の人物。