三恪二王
ここのところ王朝の賓客について書いていたところツイッターでT_Sさんに"三恪"について教わりまして、とても興味深かったので正史から適当に三恪について探してみました。
なお三恪二王については「解体晋書」さんの明帝紀に以下のような注釈がありました。
二王が直前の二つの王朝の後裔であることに議論はないものの、三恪については、これを二王を遡るさらに三つの王朝とするのか、三つ目の王朝のみなのかで、必ずしも明確とはなっていない。『通典』巻七四に見える西晋武帝の泰始三(二六七)年の奏文によれば、二王を漢・魏の後裔、三恪を夏・殷・周の後裔として、合計五代の王朝と考えているようであるが、同時代人の杜預が『春秋左氏伝』襄公二十五年に注したところでは、「周王朝は天下を得ると、夏・殷二王の後を封じ、また舜の後を封じて、これを恪と呼んだ」としており、合計三代の王朝と考えている。もっとも、後世へ行くにしたがって、次第に合計三代と考えるほうに収束されていくようである。
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詔曰:「歴觀先代,莫不褒崇明祀,賓禮三恪。…自頃喪亂,庶邦殄悴,周漢之後,絶而莫継。其詳求衛公、山陽公近屬,有履行修明,可以継承其祀者,依舊典施行。」(『晋書』成帝紀)
永嘉の乱で周・漢の後継が絶えてしまったため、近親者を探して継承させよという詔ですね。山陽公劉氏は永嘉の乱で劉秋が殺害されて以降断絶状態にありました。
一方で周の末裔こと衛公姫氏ですが、『晋書』武帝紀に姫署なる衛公が薨去した記事がありますので同様に賓客として扱われていたのでしょう。*1
漢・魏に周を加えて三恪と見られていたことがわかりますが、しかし山陽公も衛公もこれ以降の『晋書』には見られませんので結局見つからなかったんでしょうかね(笑)
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皇太子出會者,則在三恪下王公上.(『晋書』礼志下)
晉江左注,皇太子出會者,則在三恪下、王公上.宋文帝元嘉十一年,升在三恪上.(『宋書』礼志)
東晋では三恪>皇太子>諸侯王だった序列を、劉宋になって昇格して皇太子を三恪の上とした。いずれにしろ三恪は諸侯王の上位のようです。王朝の臣下ではありませんものね。
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臣毎謂皇晉宜越魏繼漢,不應以魏後為三恪.…自漢末鼎沸五六十年,呉魏犯順而強,蜀人杖正而弱,三家不能相一,萬姓曠而無主.夫有定天下之大功,為天下之所推,孰如見推於闇人,受尊於微弱?…是故故舊之恩可封魏後,三恪之數不宜見列.以晉承漢,功實顯然,正名當事,情體亦厭,又何為虚尊不正之魏而虧我道於大通哉!(『晋書』習鑿歯伝)
出たな蜀漢正統論!
晋が魏を越し漢を継いでいるので、魏の後裔を三恪とするべきではない。鼎立すること五六十年、呉魏は順を犯しているが強く、蜀は正に拠るも弱く、いずれも統一することができず万姓は主なくて空しかった。そもそも天下の大功を定め天下の推すところになったのであり、誰が闇人に推され微弱から受け継いだのであろうか。これゆえに旧知の恩で魏の後裔を封じるべきで、三恪に列するのはよろしくない。
かな。とにかくも曹魏を王朝として認めない鑿歯ですから、魏の後裔を三恪とするべきではないと。当たり前か…。また確か彼は蜀漢を漢王朝の一部と見ていますので、魏を賓客としない代わりに劉禅を…という話にはならないはずです。はずですが…。
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於時詔議二王三恪,收執王肅、杜預義,以元、司馬氏為二王,通曹備三恪.詔諸禮學之官皆執鄭玄五代之議.孝昭后姓元,議恪不欲廣及,故議從收.(『北齊書』魏收伝)
南朝の賓客は分かりやすいですが、北朝の方はそこんとこどうだったのか気になりますね。
魏収は王肅・杜預の説に従って、元氏・司馬氏を二王とし、曹氏を加えて三恪とするべしと言います。元氏は北魏かな。*2
一方でその他の人々は鄭玄五代之議に拠ろうとしたのですが、時の皇后が元氏であり、三恪を広げたくないということもあって魏収の説が採用されたとのことです。…と言うことは鄭玄は二王+三恪の五王朝を対象と解釈していたのですか。
つまるところは、王肅、杜預、鄭玄、彼らに訊けば三恪のことがわかるということですね!
隋唐以降になると、何を三恪二王とするかの議論が度々あったみたいで何やら面白そうな気配がするのですが、何しろ隋唐時代の知識がないのでよう分かりません。
九載てなんなのぜ。