三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

龍馬暗殺犯と八丈島



八丈島観光ポータルサイト
http://www.8jo.jp/IMAINOBUO.htm
大賀郷小学校公式ページ
http://www.hachijomachi-tky.ed.jp/ohsho/index.html
ウィキペディア今井信郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E4%BF%A1%E9%83%8E


 龍馬暗殺の容疑者のひとりである市川亀治郎今井信郎が明治になってのち八丈島でお役人をしていたという話です。
 そもそも八丈島宇喜多秀家以来、江戸時代を代表する伝統と信頼の流刑地でした。本土からおよそ300km。伊豆七島なんて言いますけど、実際地図で見ますと他六島が比較的固まっているのに対して、八丈だけが特に南に遠いんです。江戸時代の260年を通して送られてきた流人の数およそ二千。そのうち島抜けに成功したのが、たしか二人とか。
 そんな最果ての地に元京都見廻組がやってきた経緯ですが、上記のウィキペディアのページによれば、今井信郎は函館で新政府軍に降伏したのち龍馬暗殺を自白、禁錮となったものの明治五年に釈放。その後現在の静岡県島田市の初倉村で村長を務めた、と。明治以降の記事はこんだけで、八丈島については一切触れられてないんですわ。
 それもそうだろうと思うのですが、ぼくも八丈島で見廻組だとか龍馬だとか聞いたことはありません。京都の霊山歴史館で初めて知りましたよ。家に電話してみましたけどやっぱり知らなかったと。
 八丈島ゆかりの有名人と言えば宇喜多秀家*1と近藤富蔵*2のふたりがまず挙げられますが、知名度ならばその二人を遙かに上回るはずです。にも関わらず八丈島歴史民俗資料館などでもその名前を見た憶えがないのは、やっぱり暗殺者の汚名を島が嫌ったのでしょうかねぇ。今更ひとりくらい増えたって問題ない気がしますけど。
 ポータルサイトの記事によりますれば、明治九年、静岡県吏だった今井は伊豆諸島巡視を命じられ、同年十二月に八丈島にやってきたとのことです。当時八丈島は所属が相模府、韮山県、足柄県、静岡県と目まぐるしく変わっていたせいで新政府の政策がなかなか行き届かず、と言いますかなにせ最果ての流刑地ですんでそもそもの行政レベルがどんづまりだったと思います。着任した今井は精力的に行政改革に取り組み、その時描いたという八丈島の地図が霊山歴史館にありました*3。記事では今井を八丈の近代化に貢献した人物としていますが、特に力を入れたのが教育改革であり、その後今井は自ら大賀郷小学校の初代校長となります。もちろん大小は今でもちゃんと残ってますよ。
 ところがそんな矢先の翌十年六月。今井は西南戦争への従軍を志願、島を離れてしまいます*4。その後静岡県に戻って入植したのはウィキの通り。釈放から入植までがごっそり抜けてるんですなウィキは。
 龍馬暗殺犯の半年だけの島流しでした。

*1:安土桃山時代の大名。豊臣五大老最年少にしてもっとも地味な男。西軍の主力を担うも関ヶ原の戦いで敗北、死罪を免れて八丈島流罪。最初の八丈流人となった。しかし大坂の陣に際して旧恩報いるため八丈島から泳いで参った伝説はあまりに有名

*2:江戸時代の流人。蝦夷地探検で有名な近藤重蔵の長男。境界争いで隣人七人を殺めたキチガイ。しかし八丈島で記した『八丈実記』は郷土研究で欠かせない重要資料として今も読まれ続けている。本土ではマジキチで八丈では知識人という、まさに流人オブ流人

*3:前述の近藤富蔵の釈放が明治十三年だそうですから、当時まだ近藤は島にいたんですね。地元きっての知識人、郷土研究家の近藤と行政幹部の今井はあるいは接触していたかもしれません

*4:西南戦争は明治十年二月から九月にかけてのことです。当時八丈へ行く定期便はどの程度だったか知りませんが、今井が知らせを聞いてかつ離島を決心し許可が下りるまでの過程と定期便の頻度を思いますと、ちょっと理由としてあり得ない気がします。八丈から九州って為朝じゃないんですから…