三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

『続後漢書』関羽伝を本文校合 ver1.02

 『続後漢書』の詳細につきましてはグーグル先生にどうぞ。ぼくも成立背景や性格などよくわかりませんで、その辺がまとまったモノがあればなと思う今日この頃です。
 基本的に『三国志』のコピペなので面白みは少ないですけど、よろしければどうぞおひとつ。


使った本
三国志』巻三十六 蜀書 関張馬黄趙伝第六 (二十四史校勘標点本 陳壽撰:裴松之注 北京:中華書局 1982.7)
『続後漢書』巻第十六 列伝第十三漢臣 関羽張飛趙雲黄忠馬超 (国学基本叢書 郝経撰 北京:商務印書館 1958.5)
参考:「三国与太噺」『後漢書』目録




【『三国志関羽伝 原文】
 『三国志』本文に対して、『続後漢書』の文章を※英数字にて捕捉する形で比較したいと思います。


 關羽字雲長,本字長生,河東解人也。亡命奔涿郡。先主於郷里合徒衆(1),而羽與張飛為之禦侮。先主為平原相,以羽、飛為別部司馬,分統部曲。先主與二人寢則同牀,恩若兄弟。而稠人廣坐,侍立終日,隨先主周旋,不避艱險。[一]先主之襲殺徐州刺史車冑,使羽守下邳城,行太守事(2),[二]而身還小沛。
[一] 蜀記曰:曹公與劉備呂布於下邳,關羽啓公,布使秦宜祿行求救,乞娶其妻,公許之。臨破,又廔啓於公。公疑其有異色,先遣迎看,因自留之,羽心不自安。此與魏氏春秋所説無異也。*1
[二] 魏書云:以羽領徐州。


(1) 昭烈郷里合徒衆*2
(2) 先主襲殺徐州刺史車冑,使羽守下邳行太守事


 建安五年,曹公東征,先主奔袁紹(3)曹公禽羽以歸,拜為偏將軍,禮之甚厚。紹遣大將(軍)顏良(4)攻東郡太守劉延於白馬,曹公使張遼及羽為先鋒撃之。羽望見良麾蓋,策馬刺良於萬衆之中,斬其首還,紹諸將莫能當者,遂解白馬圍。曹公即表封羽為漢壽亭侯。初,曹公壯羽為人,而察其心神無久留之意,謂張遼曰:「卿試以情問之。」既而遼以問羽,羽歎曰:「吾極知曹公待我厚,然吾受劉將軍厚恩,誓以共死(5),不可背之。吾終不留,吾要當立效以報曹公乃去。」遼以羽言報曹公,曹公義之。[一]及羽殺顏良,曹公知其必去,重加賞賜。羽盡封其所賜,拜書告辭,而奔先主於袁軍。左右欲追之,曹公曰:「彼各為其主,勿追也。」[二]
[一] 傅子曰:遼欲白太祖,恐太祖殺羽,不白,非事君之道,乃歎曰:「公,君父也;羽,兄弟耳。」遂白之。太祖曰:「事君不忘其本,天下義士也。度何時能去?」遼曰:「羽受公恩,必立效報公而後去也。」
[二] 臣松之以為(6)曹公知羽不留而心嘉其志,去不遣追以成其義,自非有王霸之度(7),孰能至於此乎?斯實曹公之休美。


(3) 曹操攻昭烈昭烈奔袁紹禽羽以歸*3
(4) 紹遣将軍顔良
(5) 吾受劉将軍厚恩誓共死
(6) 裴松之 *4
(7) 自非有王覇之度


 從先主就劉表(8)。表卒,曹公定荊州先主自樊將南渡江,別遣羽乘船數百艘會江陵。曹公追至當陽長阪,先主斜趣漢津,適與羽船相值,共至夏口(9)。[一]孫權遣兵佐先主拒曹公,曹公引軍退歸(10)。先主收江南諸郡,乃封拜元勳(11),以羽為襄陽太守、盪寇將軍,駐江北。先主西定益州,拜羽董督荊州事。羽聞馬超來降,舊非故人(12),羽書與諸葛亮,問超人才可誰比類。亮知羽護前,乃答之曰:「孟起兼資文武(13),雄烈過人,一世之傑,黥﹑彭之徒,當與益恕y並驅爭先,猶未及髯之絶倫逸羣也。」羽美鬚髯,故亮謂之髯。羽省書大悦以示賓客。
[一] 蜀記曰:初,劉備在許,與曹公共獵(14)。獵中,衆散,羽勸備殺公,備不從。及在夏口,飄颻江渚,羽怒曰:「往日獵中,若從羽言,可無今日之困。」備曰:「是時亦為國家惜之耳(15);若天道輔正,安知此不為福邪!(16)
臣松之以為備後與董承等結謀,但事泄不克諧耳,若為國家惜曹公,其如此言何!羽若果有此勸而備不肯從者,將以曹公腹心親戚,實繁有徒,事不宿構,非造次所行;曹雖可殺(17),身必不免,故以計而止,何惜之有乎!既往之事,故託為雅言耳。


(8) 従先主劉表*5
(9) 昭烈自樊將南渡江別遣羽船會共至夏口*6
(10) 孫權遣兵佐昭烈拒操破操于赤壁*7
(11) 「乃封拜元勳」を削除
(12)「舊非故人」を削除
(13)亮故推重羽答之曰孟起兼資文武*8
(14) 昭烈在許與共獵
(15) 若從羽言可無今日昭烈曰造次失之耳 *9 *10
(16) 安知此不為福也耶
(17) 曹操可殺


羽嘗為流矢所中,貫其左臂,後創雖愈,毎至陰雨,骨常疼痛(18),醫曰:「矢鏃有毒,毒入于骨,當破臂作創,刮骨去毒,然後此患乃除耳(19)。」羽便伸臂令醫劈之。時羽適請諸將飲食相對(20),臂血流離,盈於盤器,而羽割炙引酒(21),言笑自若。(22)
(18) 創雖愈,毎至陰雨,骨常
(19) 然後此患可除爾
(20) 請諸將飲食相對
(21) 而羽割炙


(22) 昭烈既得益州孫権遣使求荊州諸郡.昭烈不許.遂置長沙,零陵,桂陽三郡長吏.羽盡逐之.権大怒.遣呂蒙督兵取三郡.遂分荊州.以湘水為界.羽督南郡.零陵,武陵以西而已.*11


二十四年,先主為漢中王,拜羽為前將軍,假節鉞。是歳,羽率衆攻曹仁於樊(23)。曹公遣于禁助仁。秋,大霖雨,漢水汎溢,禁所督七軍皆沒。禁降羽,羽又斬將軍龐徳。梁、郟、陸渾羣盜或遙受羽印號,為之支黨,羽威震華夏(24)。曹公議徙許都以避其鋭,司馬宣王、蒋濟以為關羽得志,孫權必不願也。可遣人勸權躡其後,許割江南以封權,則樊圍自解。曹公從之(25)。先是,權遣使為子索羽女,羽罵辱其使,不許婚,權大怒(26)。[一](27)又南郡太守麋芳在江陵,將軍(傅)士仁屯公安,素皆嫌羽(自)輕己(28)。[自]羽之出軍,芳、仁供給軍資,不悉相救。羽言「還當治之」,芳、仁咸懷懼不安。於是權陰誘芳、仁,芳、仁使人迎權。而曹公遣徐晃曹仁,[二]羽不能克,引軍退還。權已據江陵,盡虜羽士衆妻子,羽軍遂散。權遣將逆撃羽,斬羽及子平于臨沮(29)。[三]
[一] 典略曰:羽圍樊,權遣使求助之,敕使莫速進,又遣主簿先致命於羽。羽忿其淹遲,又自已得于禁等,乃罵曰:「貉子敢爾,如使樊城拔,吾不能滅汝邪!」權聞之,知其輕己,偽手書以謝羽,許以自往。臣松之以為荊、呉雖外睦,而内相猜防,故權之襲羽,潛師密發。按呂蒙傳云:「伏精兵於[舟冓][舟鹿]之中,使白衣搖櫓,作商賈服。」以此言之,羽不求助於權,權必不語羽當往也。若許相援助,何故匿其形迹乎?(30)
[二] 蜀記曰:羽與晃宿相愛,遙共語,但説平生,不及軍事。須臾,晃下馬宣令:「得關雲長頭,賞金千斤。」羽驚怖,謂晃曰:「大兄,是何言邪!」晃曰:「此國之事耳。」
[三] 蜀記曰:權遣將軍撃羽,獲羽及子平。權欲活羽以敵劉、曹,左右曰:「狼子不可養,後必為害。曹公不即除之,自取大患,乃議徙都。今豈可生!」乃斬之。臣松之按呉書:孫權遣將潘璋逆斷羽走路,羽至即斬,且臨沮去江陵二三百里,豈容不時殺羽,方議其生死乎?又云「權欲活羽以敵劉、曹」,此之不然,可以絶智者之口。呉歴曰:權送羽首於曹公,以諸侯禮葬其屍骸。


(23)是歳,羽使南郡太守糜芳守江陵.将軍傅士仁守公安.自率衆攻曹仁於樊 *12
(24) 将軍龐徳力戦.羽禽斬之.羽又遣別将囲将軍呂常襄陽.荊州刺史胡脩南郷太守傅方皆降羽.陸渾民孫狼等殺県主簿南附于羽.羽授狼印.給兵還.其支党布于梁郟之間.皆受印号.自許以南.往往遥応羽.羽威震華夏
(25) 操議徙許都以避其鋭司馬懿蒋濟言.于禁等為水所没.非戦攻之失.国家大計未足為損.劉備孫権外親内疎.関羽得志.權必不願也.可遣人勸權躡其後,許割江南以封權,則樊圍自解.操從之
(26) 羽罵辱其使,不許婚,權已溜怨欲囲羽.及羽圍樊,權遣使求助之,復敕使勿速進,又遣主簿先致命于羽.羽忿其淹延,又自已得于禁等,乃罵曰狢子敢爾,吾抜樊不能滅汝邪.權聞之,遂欲囲羽.偽以手書謝,且以自往
(27) 及羽得于禁人馬数万.糧食乏絶,擅取権米湘関.権大怒.為牋刀與曹操,請討羽自效.遂発兵遣呂蒙等襲羽.*13
(28) 麋芳傅士仁皆嫌羽自輕己
(29)不能克,引軍還.權已據江陵,盡虜羽士衆妻子,羽自知孤窮.乃西保麦城,兵皆解散.纔十余騎,権遣将潘璋迎撃羽及子平于臨沮.皆遇害
(30)権之手書誤羽,許以親往及匿其形迹.皆取偽之術也.典略所載為得其情.故取之*14


追諡羽曰壯繆侯。[一]子興嗣。興字安國,少有令問,丞相諸葛亮深器異之。弱冠為侍中、中監軍,數歳卒。子統嗣,尚公主,官至虎賁中郎將。卒,無子,以興庶子彝續封。[二] (31)
[一] 蜀記曰:羽初出軍圍樊,夢豬噛其足,語子平曰:「吾今年衰矣,然不得還!」江表傳曰:羽好左氏傳,諷誦略皆上口。
[二] 蜀記曰:龐恕y子會,隨鍾、勝g伐蜀,蜀破,盡滅關氏家。


(31) 権遂全拠荊州,表送羽首于曹操.操并求其屍,以諸侯礼葬之.羽初出軍囲樊,夢豬齧其足,語子平曰吾今年衰矣.果不得還.景曜元年,追諡曰忠義.羽儀状雄偉,嶽嶽尚義,儼若神人.好春秋左氏傳,諷誦略皆上口.然剛而自矜.終以取禍云.子興嗣.興字安國,少有令聞,丞相亮深器異之.弱冠為侍中、中監軍,數歳卒.子統嗣,尚公主,官至虎賁中郎將.卒,無子,以興庶子彝續封.景曜末年,龐恕y子會従鍾勝入寇,盡滅關氏家*15

*1:『続後漢書』では基本的に裴注もそのまま注釈として残しているようです

*2:『続後漢書』は劉氏のみに本紀を立ててますから、劉備諡号で記されます

*3:曹操は諱の表記ですね。"東征"と"攻昭烈"とには『三国志』と『続後漢書』の主体の違いが表れていると思います。曹操目線から見れば劉備を"征伐"する形ですけど、劉備視点から見ると曹操が"攻めて"きた訳です

*4:三国志』では裴松之が書いているので「裴松之の思うに」と一人称視点になっている箇所が『続後漢書』では「裴松之が言うに」と三人称視点。以後の箇所も同様です

*5:就は"つきしたがう、依は"たよる"でしょうか?

*6:長坂の戦いの部分がカットされています

*7:赤壁において曹操を破ったんです。赤壁において、破ったんです

*8:「プライドが高いことを知っていたので」から「尊重していたので」に改変

*9:『蜀記』を改変して引用しています。このような引用文の改変は他でも見られるのでしょうか?

*10:劉備の言い訳が変わっています。『三国志』の方は「国家のために彼を惜しんだのだ」と分かるような分からないような言い訳ですが、『続後漢書』はどうでしょうか。曹操を討ってもその配下が同じ地位に就くだけだ、のようなニュアンスがあるように思いました。董卓の時みたく

*11:荊州北征の前に挿入される、三国志にはない段落です。元になった記事は魯肅伝でしょうか

*12:見せ場、荊州戦は相当分量が増やされていますね。あと、やはり士仁は傅士仁です

*13:三国志』にはなく、この箇所に挿入されています。この于禁投降兵の食料のため孫呉の食糧基地を奪った話は呂蒙伝に見られます

*14:関羽孫権の遺恨に関する段は、裴注の『典略』を本文に採用し、裴松之の意見を注釈として載せた上で批判しています

*15:基本的には裴注を本文に組み合わせた形になっています。また諡号が異なることに関しては、郝経ではなく清乾隆帝の犯行だそうです。『清史稿』関羽諡号が悪諡かどうかに関してはコチラをご参考に http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=3512;id=