三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

『通典』礼典三十四賓礼「三恪二王後」の虞から西晋までを書き下さんとす

虞舜以堯子丹朱為賓,曰虞賓,而不臣之.
書云:「虞賓在位,群后徳讓.」

虞の舜は堯の子丹朱を以て賓と為し、曰く虞の賓にて臣ならず。
書に云う「虞の賓位に在り、群后*1讓を徳とす」


夏禹封丹朱於唐,舜子商均於虞,皆有疆土,以奉先祀,服其服,禮樂如之.以客禮,不臣也.

夏の禹は丹朱を唐に、舜の子商均を虞に封じ、皆疆土*2有り、以て先祀を奉じ、其の服に服し、礼楽これの如し。客礼を以て臣ならずなり。*3


周武王克商,而封夏後於杞、殷後於宋,皆爵公,封舜後於陳,爵侯,以備三恪.
周得天下,封夏殷二王後,又封舜後,謂之恪.恪,敬也,義取王之所敬,并二王後為三國,其轉降示敬而已,故曰三恪.
司几筵延國賓於牖前,左彤几.
國賓,王公之所不臣者.馬融以為二王後.
王者立三恪二王之後者,欲通師法之義.其前代之後,使之郊天,以天子禮祭其始祖、受命之王,自行正朔服色,此得通三正也.
三正者,天地人也.三正之道,由三微之月,受命之王,各法其一.尚書大傳云:「夏以孟春為正,殷以季冬為正,周以仲冬為正.必用此三微之月為正者,時物尚微,以明王者受命扶微,奉成此正,使其道重大正始也.」

周の武王商に克ちて夏の後を杞に*4、殷の後を宋に封じ*5、皆公に爵す。舜の後を陳に封じ*6、侯に爵す。以て三恪を備える。
周天下を得、夏殷二王の後を封じ、又舜の後を封じ、恪と謂う。恪は敬なり。義は王の敬する所を取る。二王の後を併せ三國と為し、其の降るを転え、敬うを示すのみ、故に曰く三恪。
司几筵延國賓於牖前、左彤几*7
國賓、王公の臣ならざる所。馬融以為らく二王の後なり。
王者三恪と二王の後を立てるは師法の義を通すを欲するなり。其の前代の後をして郊天させ、天子の礼を以て其の始祖・受命の王を祭らしめ、自ら正朔服色を行わせるは、此れ三正の通じるを得るなり。
三正は天地人なり。三正の道、三微の月に由り、受命の王、おのおの其の一を法とす。尚書大傳に*8云う「夏孟春を以て正と為し、殷季冬を以て正と為し、周仲冬を以て正と為す.必ず此れ三微の月を用いて正と為すは、時物尚微、明を以て王者命を受け微を扶け、此の正を成すを奉じて、使其道重大正始也.」


魏文帝封後漢帝協為山陽縣公,邑萬戸,位在諸侯王上,奏事不稱臣,受詔不拜,以天子車服郊祀天地、宗廟、祖臘如漢制,都山陽濁鹿城.青龍二年薨,謚曰孝獻皇帝,以漢天子禮儀葬於禪陵.

魏の文帝後漢帝協を奉じて山陽県公と為し、邑万戸。位諸侯王の上に在り、事を奏ずるに臣を称させず、詔を受くに拜させず。天子の車服郊祀、天地・宗廟・祖臘*9を以て漢制の如くす。山陽濁鹿城に都す。青龍二年薨じ、謚して曰く孝献皇帝、漢の天子の礼儀を以て禅陵に葬す。*10


西晋

武帝泰始元年十二月,遣太僕劉原告太廟,封魏帝常道郷公奐為陳留王.詔曰:「明紱昭融,遠鑒天命,欽象曆數,用禪厥位.敢咨詢故訓,以敬授青土於東國,永為晉賓,載天子旌旗,乘五時副車,行魏正朔,郊祀天地,禮樂制度皆如魏舊,以承王顯祖之禋祀.」又詔王上書不稱臣,答報不為詔,一如賓禮.
二年,詔:「陳留王操尚謙沖,毎事輒表,非所以優崇之也.主者諭意,非大事皆使王官表上之.」
三年,太常上言:「博士祭酒劉喜等議:漢魏為二王後,夏殷周之後為三恪.衛公署於前代,為二王後,於大晉在三恪之數,應降稱侯,祭祀制度宜與五等公侯同.」有司奏:「陳留王、山陽公為二代之後,衛公備三恪之禮.易稱『有不速之客三人來』,此則以三為斷,不及五代也.」

晉の武帝の泰始元年十二月、太僕劉原を遣りて太廟に告げしめ、魏帝奐を封じて陳留王と為す。詔して曰く「明紱昭融、遠く天命を鑑み、欽んで暦数を象り、禅を用て位に厥く。敢えて故訓を咨詢し、以て敬い東国に青土*11を授け,永く晋の賓と為し、天子の旌旗を戴き五時副車*12に乗り、魏の正朔を行わせ、天地を郊祀させ、礼楽の制度は皆魏の旧の如くし、以て王を承け祖の禋祀を顕かにす」又詔して王の上書は臣を称さず、答報は詔を為さず。一て賓礼の如し。*13
二年、詔して「陳留王の操尚謙沖にして、事ごとに輒ら表す。優崇を以てする所に非ざるなり。主者意を諭し,大事に非ざるは皆王官をして上に表せしめる」*14
三年、太常上言して「博士祭酒劉喜ら議して、漢魏を二王の後と為し、夏殷周の後を三恪と為す。衛公署前代に於いて二王の後と為り、大晋に於いて三恪の数に在り。応じて降し侯を称し、祭祀制度宜しく五等公侯と同じくすべし」*15有司奏じて「陳留王・山陽公を二代の後と為し、衛公に三恪の礼を備える.易を称するに『速ざるの客三人来る有り』、此れ則ち三を以て断と為し、五代に及ばざるなり」




太字は訓読できなかったところです。
西晋において、二王三恪が「(1)(2)+(3)(4)(5)」代前か「(1)(2)+(3)」代前かすでに議論があったことが興味深いですね。
魏−陳留王・漢−山陽公・周−衛公。
『晋書』武帝紀に衛公姫署薨去の記述があり、成帝も衛公に言及していますので、劉喜らの議論は却下されたのでしょう。
そもそも衛公ですが、この周の後裔をまず封じたハズの"漢"の項目が何故かございません。なんででしょうね。『白虎通』を読んでくださいってことかな。

*1:諸侯

*2:領地

*3:史記』五帝本紀舜紀に「堯子丹朱,舜子商均,皆疆土有,以奉先祀.服其服,禮樂如之.以客見天子,天子弗臣,示不敢專也」

*4:史記』夏本紀に「湯封夏之後,至周封於杞也」

*5:史記』殷本紀に「封紂子武庚﹑祿父,以續殷祀,…周武王崩,武庚與管叔﹑蔡叔作亂,…而立微子於宋,以續殷後焉」

*6:漢書』地理志に「陳本太昊之虚,周武王封舜後媯滿於陳」

*7:『周礼』司几筵に「國賓于牖前亦如之左彤几」とありましたが…

*8:鄭玄注

*9:祖は祖神の祭で午日に行い、臘は歳暮の衆神の祭で戌日に行う

*10:後漢書献帝

*11:北海郡

*12:五時車は時期によって天子の乗る青・赤・黄・白・黒の五種の車

*13:『晋書』武帝

*14:『晋書』武帝

*15:宋書』荀伯子伝に「又泰始三年,太常上博士劉喜等議,稱衛公署於大晉在三恪之數,應降稱侯」