三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

吉川英治『三国志』(1) 〜桃園決義

北方、宮城谷、蒼天航路、無双、、、
などなど各ジャンル様々な"三国志入門"が躍動する現代にあってもなお色褪せない吉川三国志を改めて読み返してみた感想です。


●吉川三国志と『三国志演義』の関係
吉川三国志は随所随所にオリジナルを仕込んでいますが、基本的にはほぼ『演義』をなぞって書かれております。
序文に曰く、

「私は、(三国志の)簡訳や抄略をあえてせずに、長編執筆に適当な新聞小説にこれを試みた。」
原本には「通俗三国志」「三国志演義」その他数種あるが、私はそのいずれの直訳にもよらないで、随時、長所を択って、わたくし流に書いた。これを書きながら思い出されるのは、少年の頃、久保天随氏の演義三国志を熱読して…」
「本来、三国志の真味を酌むにはこの(久保氏の)原書を読むに如くはないのであるが、今日の読者にその難渋は耐え得ぬことだし…」

ところが面白いことに、現代では吉川三国志ならびに横山光輝三国志の影響力が大きすぎるあまり、吉川オリジナルが『演義』のものと誤解されてしまったり、また他方では先生が「現行の三国志演義」が流布される以前のバージョンの「三国志演義」をも参考にされたことで、現バージョンの演義では削除されてしまった、本来は知りがたいエピソードまで何故だか日本人のファンはやけに詳しいなんてことにも起こっています。*1
この様な吉川三国志の影響の大きさを踏まえつつ、演義にはない吉川オリジナルの部分に注目して読みたいと思います。


●桃園結義まで
言うまでもない吉川三国志オリジナルのエピソードでして、考えてみればオリジナル三国志の中で近頃名高い『蒼天航路』や『覇-LORD』なども序盤に独自のエピソードを挟んできますし、宮城谷三国志でもやに壮大な前振りが用意されていますしね。
ここで気になるのは「張飛の性格」「劉備の系統」「年代」の3点です。
張飛の性格について、これは伊藤晋太郎先生がとあるサークル冊子で指摘されていたことでもあるんですけど、この時の吉川張飛はいわゆる反面人物的なキャラクターとはまた異なっています。冊子から引用しますと、

「桃園結義の前後で張飛の性格はがらりと変わってしまう。桃園結義前の張飛は酒好きではあるものの礼儀正しく、智略もあった。『三国志演義』をはじめ、中国における一般的な張飛のイメージとは一線を画す。しかし、桃園結義後の張飛は中国の一般的な張飛像と何ら変わるところはない」

張飛の知略としては一応後述の張宝戦などでも窺えるのですが、いずれにしろ伊藤先生のおっしゃる通り、ストーリーが『演義』に合流するにつれ、独自の色を見せていたはずの張飛の人物像もまた『演義』と合流してしまったようです。


劉備の系統について。

「だが、こんなことは、めったに口に出すことではない。なぜならば、今の後漢の帝室は、わたし達のご先祖を亡ぼして立った帝王だからです。景帝の玄孫とわかれば、とうに私たちの家すじは断ちきられておるでしょう」
「時節が来たら、世のために、また、漢の正統を再興するために、剣をとって、草廬から起たねばならぬぞと」*2


この劉備母による、「正統たる劉備に対して、帝位を奪った後漢帝室*3という見方は非常に斬新で、劉備による漢室再興がよりクッキリを浮かび上がると同時に、後漢皇帝を擁する曹操の正当性へ疑問を投げかけることにもなりますし、ぼくこの設定すごく好きなんですよ。
しかし残念ながらこちらの設定も、黄巾の乱の頃にはすっかりなかったことになってしまったみたいです。劉焉*4や劉協におろか督郵*5にまで喋ってしまいますしね。
以上の様に、吉川三国志にはオリジナルエピソード、たくさんあるのですが、勿体ないことにそのほとんどが"なかったこと"にされてしまっているんです。


最後に年代について。このオリジナルパートは冒頭において「建寧元年」(168年)のことであるとはっきりと書かれているのですが、これではさすがにおかしいですね。劉備8歳。実際、続きを読む限りではどうやら黄巾から3、4年前というのが本当のところのようです。
では冒頭のこれは誤植かというと、しかし第二行目で「今から約千七百八十年ほど前のことである」あり、連載当時(40年ごろ)から勘定するとやはり160年ごろを指している模様。
そうしたらばこの建寧元年はいったいなにかと見れば、他でもない霊帝が即位した年であり、また二次党錮が起こった年なのですね。先生は序文でも三国志は「後漢の第十二代霊帝の代(わが朝の成務天皇の御世、西暦百六十八年頃)から」始まると書かれており、この建寧元年を強く意識されていたことが窺えます。
霊帝即位・党錮の禁とイベントの面からも三国時代・『三国志演義』の幕開けとして相応しいこの建寧元年を、吉川三国志の第一行目に持ってきたかったのでしょうが、さすがにちょっと無理が出てしまったようです。

*1:三国志演義』は中国において、時代ごとに様々なバージョン・チェンジがなされました。現代の日本語訳『三国志演義』はすべて、清代に成立した”毛宗崗本”と呼ばれる版本(バージョン)を翻訳したものです。先生が子供の頃熟読したという久保氏の『演義』は日本初の毛宗崗本翻訳だったそうですね。一方序文にもある「通俗三国志」という本は、毛宗崗以前に成立した”李卓吾本”を元に書かれたもので、現行の毛宗崗本では削られてしまったエピソードも含まれています

*2:講談社文庫版(1980)p81

*3:実際のとこは劉備も劉秀もあと劉焉もそれぞれ景帝諸王から出た系統です。

*4:劉焉が義兵を挙げた劉備と対面することは『演義』も吉川も同様ですが、『演義』ではこの場面で劉焉が劉備を甥にしているんですよ。のちに劉備は彼の息子から彼の国を奪う訳で、とても効果的な伏線になっています

*5:どうも先生は”督郵”を人名だと勘違いしているようですね