吉川英治『三国志』(2-a) 〜黄巾の乱
北方、宮城谷、蒼天航路、無双、、、
などなど各ジャンル様々な"三国志入門"が躍動する現代にあってもなお色褪せない吉川三国志を改めて読み返してみた感想です。
今回は黄巾の乱まで。
●劉備・関羽・張飛の容貌
腰に一剣、みすぼらしい身なり、眉は秀で、唇は紅く、とりわけ聡明そうな眸や、豊かな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤しげな容子はなかった。*1
額もひろい。眼は鳳眼であり、耳朶は豊かで、総じて、体の巨きいわりに肌目こまやかで、音声もおっとりとしていた*2
それぞれ劉備、関羽の初登場時に描かれた容貌でして、また張飛は「身の丈七尺、髪から顎までの艶々しい髯、頬に刀傷」と描写されています。
今の日本では当たり前になった、大耳手長、棗色の肌、虎髭といったテンプレートはまだこの時ではなかったのでしょうか。*3
●飲んだくれの李定さん
「わしは、魯の李定という者さ。…羊をひっぱって、酒に酔うて、時々、市に行くので、皆が羊仙といったりする」*4
劉家から貴人が出ると予言した李定という老人。
桑の樹を見て劉家を未来を予言する逸話は『三国志』『演義』ともに見られまして、またその人物の名前が李定であることは裴注引『漢晋春秋』に見られます。先生が広く資料を参考にされたことが窺えます。
ちなみに『蒼天航路』三十話にて「飲んだくれの李定さん」と劉備母の口から説明されているこの人物像、あるいは吉川三国志と無関係ではないのかもしれませんね。王欣太さんも一応吉川三国志も手に取っているそうなので。
●曹操の登場
吉川曹操の赤備えは、横山光輝の手でイラストにされたこともあって大変よく知られています。この赤備えは武田家的な意味で、精強なイメージの表れなのでしょうか?
それより気になるのは、
これら情報は『演義』には見られず、特に後者、この時の曹嵩が大鴻臚だということは『三国志』裴注引『続漢書』の
「霊帝擢きて大司農、大鴻臚を拝せしめ、崔烈に代えて太尉と為す」
と『後漢書』霊帝本紀の
「(中平四年)十一月、太尉崔烈罷め、大司農曹嵩太尉と為る」
の両方を知っていなければできない発想です。確かにこの時の曹嵩は太尉でも大司農でもなく、ありえるとしたら大鴻臚なのですよ。
●黄巾の乱
黄巾の乱における吉川劉備一団の動きとしましては、
劉焉配下として青州の程遠志を討つ*6
→劉焉配下として青州太守を救援
→廬植配下として広宗で交戦
→朱雋配下として潁川で火計をもって撃破
→広宗へ戻る途中で廬植と遭遇
→広宗で董卓を救援
→朱雋配下として潁川で張宝を討つ
→朱雋配下として陽城で張梁を撃破
→朱雋配下として宛城で韓忠らを撃破
となり、流れは『演義』とほぼ同じです。ただ吉川では太字部分が劉備の戦功として水増しされています。特に潁川での火計ですね。『演義』では皇甫嵩と朱儁によるもので、劉備はすべてが終わったあとに来たためにまた広宗まで引き返してます。
以上の様に吉川では劉備の活躍がより増されていますが、むしろ『演義』の方が少なすぎるんですよ。特に「広宗→潁川→広宗」の動きなんかは、非正規義勇軍の不遇を表現しているのかタライ回しも同然ですね。