孫韶、出自の謎
そもそもは、この吉川孫韶の意外な出自設定に疑問を覚えたことが始まりでした。孫韶が孫堅の妾の子だなんて、ちょっと聞いたことないなと思ったんです。
孫韶の出自は『三国志』孫韶伝、韋昭『呉書』、『三国演義』にそれぞれあるのですが、まとめると以下のようになります。
・『三国志』 …兪家出身。孫策から孫姓を賜る
・『呉書』 …孫家出身。孫権の族子にあたる
・『三国演義』…兪家出身。孫堅の養子になる
・『吉川』 …孫家出身。孫堅と妾(兪氏)の息子
この様にどういう訳かそれぞれで異なっているのですが、しかしその中でも『吉川』の、孫堅の実子という設定はなかなか珍しいなと思います。『呉書』と『演義』の折衷とでも言いましょうか?一体どうして吉川先生はこの様な設定にしたのでしょう?
と、いった旨の疑問をツイートしたところ、思わぬ反論があったのです。
「いや、『演義』でも孫韶は孫堅と兪氏の子だったはず」
いや、そんなはずはない。画面見ることに定評のあるにゃもさんはそんな初歩的なぶっぱはしないんです。
実際に手元の『演義』を改めても、孫韶は養子で間違いありません。
そうリプライしたら、その方も反論されて「そんなはずはない、自分の見ている小川訳では間違いなく実子だ」と言うのです。
それでやっと気がつきました。ぼくが読んでいたのは平凡社の立間訳『演義』。その方が見ていたのが小川訳でした。そいで急いでもうひとつの、ちくま文庫の井波訳を確認したところ、「孫堅の側室の兪氏に、名を韶、あざな公礼という息子がいた」となっていたのです。
小川先生(岩波)・井波先生(ちくま)と、立間先生(平凡社)とで翻訳が異なっていたのですね。いや、これは意外な結果でした。
翻って、原文を確認してみれば、
「堅又過房兪氏一子,名韶,字公禮。」
であり、"過房"をどう読むかが争点になっていたことがわかりました。
いずれにしろ、『吉川』が実子説を採用したということは小川訳を参考にしていたからだ、ということになりましょうか。いや違います。今回挙げた三翻訳のうち、最も古い小川訳でも初出は1953年。戦前に連載された『吉川』より新しいのです。孫韶実子説は昭和以前まで遡らなくてはならないようです。いやそもそも『吉川』の種本にして、日本最古の『演義』訳、『通俗三国志』ではどうなっているのか。
次回に続きます。