その後の蜀帝
(景元四年)この月、蜀主劉禅訒艾を詣で降り、巴蜀皆平ぐ。…(翌咸熙元年)丁亥、劉禪を封じて安樂公と為す。(『三国志』元帝紀)
263年、後主劉禅が降伏。ここに蜀漢は滅び、翌年劉禅は安楽公に封じられます。公爵とは、魏において曹氏宗室と一部の例外のみに限られた特権的爵位であります。
その限られた例外のひとつが、後漢の末裔として魏王朝の賓客*1だった山陽公劉協です。劉禅は、劉協と同等の爵位にあったのです。
劉禅の特別待遇はこれだけではありません。
西晋の泰始元年、劉禅の子弟が駙馬都尉に任じられいるのですが、魏以降の駙馬都尉は宗室や外戚が就く名誉官職。そしてこの時は、山陽公劉康・衛公姫署・宋侯孔紹の子弟もまた駙馬都尉に任じられているのです。彼らはそれぞれ、漢の末裔、周の末裔、殷の末裔でした。*2
劉禅が旧王朝の末裔と同等の待遇を受けていた、それはすなわち劉禅自身も王朝の末裔と見なされていた部分があったということなのです。
271年に劉禅は薨去、諡して思公、子の劉恂が継ぎます。
その後、安楽公家は永嘉の乱に巻き込まれてしまいます。
永嘉の乱では司馬氏の皇族はじめ、衛公姫氏、山陽公劉氏、陳留王曹氏といった賓客ですら大きな被害を受けています。安楽公劉氏も同様でした。
しかし決して断絶した訳ではなく、その後のことは『三国志』に引用されています。
孫盛の蜀世譜に曰く、璿の弟、瑤、蒴、瓚、褜、恂、璩六人。蜀敗れ、褜自殺し、餘は皆内徙す。值永嘉大亂,子孫絶滅す。唯だ永の孫の玄は蜀に奔り、李雄偽りて安樂公に署し以て禪の後を嗣がしむ。永和三年李勢討たれ、(孫)盛成都において玄に見える也。
(『三国志』二主妃子伝注引『蜀世譜』)
劉永の孫の劉玄*3のみが唯一、永嘉の乱を逃れ、成漢の李雄に保護されたそうです。李雄は劉玄を改めて安楽公に封建します。劉玄は成漢が滅んだ後も、東晋に保護されてなお存命だった、とのことです。
その後の顛末は『晋書』本紀にあります。
・(咸和元年)冬十月、魏武帝の玄孫曹勱を封じて陳留王と為し、以て魏を紹がしむ。
・(咸康二年)詔して曰く「周漢の後、絕えて繼ぐ莫し。其の衞公・山陽公の近屬を詳らかに求め、修明を履行する有れば以て其の祀者を繼承せしむべし。」(『晋書』成帝紀)
・(隆和元年)夏六月庚辰、山陽公劉玄薨ず。
斠注に曰く、玄、安楽公禅の弟永の孫也。(『晋書』哀帝紀)
永嘉の乱で絶えた魏の末裔、漢の末裔、周の末裔といった王朝の賓客たち。東晋の成帝はそれらを復興する必要がありました。その経緯と魏の末裔については「その後の魏帝」でも書きました。
果たして、本紀を追っていきますと「山陽公劉玄薨ず」という記事に当たります。
『晋書斠注』はこれこそ、成漢より保護された劉玄であると言います。劉玄は断絶していた山陽公を継いでいたのです。おそらくは劉禅が魏晋で山陽公劉協と同格に扱われていた為に、その系統からの紹封が認められたのでしょう。
結果的に、曹操と劉備の末裔が仲良く東晋の賓客になるという、なんとも不思議な形になったのでした。
(隆和元年)夏六月庚辰、山陽公劉玄薨ず。
(隆和三年十二月)乙丑、山陽公世孫臻を立て公と為す。(『晋書』哀帝紀)
(義熙十一年)夏五月甲申、山陽公劉臻薨ず。世子郁を立て公と為す。(『晋書』安帝紀)
(義熙十三年)春四月午己、山陽公劉郁薨ず。
(元熙元年)正月壬子、劉安国を立て山陽公と為す。(『晋書』恭帝紀)
以降、山陽公家が存続していた様子は『晋書』に見えます。
しかし以降の『宋書』や『南史』にはその存在がないために、やはり宋王朝が建ったことで二王の後から外されたのだと思います。