炎興二年
謹んで案ずるに、『通鑑綱目』、炎興元年冬十月、帝出で降り、漢亡び、次年は魏の咸熙元年に書す。炎興に二年無し。此の二年を称すは、『綱目』と合わず。劉封・廖化諸伝を考えるに、仍ち咸熙元年に作る。此の炎興二年を書すは、郝経亦論の定まらざるに在るを益々知る。*1
(郝経『続後漢書』末帝本紀炎興二年)
昨日の訓読会でちょっとだけ話題に上った炎興二年について、たまたま『続後漢書』を眺めていたら上記のような注釈が挿入されているのを見つけました。
「炎興」とは蜀漢での元号で、263年(魏の景元四年)の8月*2に改元されました。しかしたった2か月で、蜀漢滅亡に伴って消滅しちゃいます。なので本来では炎興二年は存在しないはずなのです。
ところが蜀漢正統論に拠って元号を考えますと、264年が空白になっちゃうんですね。西晋の元号「泰始」は265年からなので。
そこでどうしようかと言いますと、 上記注釈によれば、『通鑑綱目』は「咸熙」を用いてるそうです。『通鑑綱目』はご存じの通り蜀漢の元号を採用した史書ですが、ここでは流石にやむを得ず、魏の元号で代用した。
でも、蜀漢が大好きな『続後漢書』はそれすら許せないんですね。本来はない、「炎興二年」でもって空白の264年を記した訳です。