三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

荊州刺史丁原

その時、ひとりが宴卓を押しのけてつかつかと進みいで、大声に叫んだ。……董卓が見れば、荊州の刺史丁原である。(立間祥介訳『三国志演義』第三回)
  『魏書・呂布伝』によれば、丁原は実際には荊州刺史ではなく、并州刺史・執金吾を歴任している(沈伯俊『三国志演義大事典』)

※参考 「呉下の凡愚の住処」‐執金吾・丁原
http://ameblo.jp/ancyon/entry-10485987213.html



演義丁原が"荊州"刺史だったとは知りませんでした。
実はこの箇所、井波先生の演義訳では"并州"になっておりまして、一方で立間先生の訳を見れば"荊州"だったもので、てっきり平凡社の誤植だと思ってたんですよ。まさか"荊州"刺史の方が正しかったとは知りませなんだ。
ちなみに、各種『演義』訳ではいずれも"荊州"であり、ここを"并州"に改めているのは井波訳のみです。おそらく井波先生が底本にされた人民文学出版社『三国演義』がそう改めていたのでしょう。ただ嘉靖・葉逢春・李本・毛本、の版本ではいずれでも"荊州"刺史でした。
一方、『通俗三国志*1では"并州"(版によっては"並州")となっています。『通俗』の種本である李卓吾本に従えば"荊州"となるはずなので、『通俗』は『三国志』などに従って改めたものと思われます。『通俗』を種本とする『吉川三国志』も同じく"并州"です。
つまり正史類では"并州"、演義類では"荊州"。ただし演義類のうち井波訳・通俗・吉川が"并州"といった感じでしょうか。
また何故『演義』が丁原を"荊州"刺史としたのか気になるところですが、もしかしたら単に羅貫中が間違えただけかもしれませんね。あの司馬懿ですら間違うのですから・・・








*1:幸田露伴校『通俗三国志』東亜堂、明治44年