封建されなかった曹叡の弟 【曹蕤】
・「てぃーえすのワードパッド」‐平原王と平原侯(2011/4/4)
・「てぃーえすのワードパッド」‐曹叡って(2008/12/15)
※参考 曹魏諸王公一覧
曹叡は黄初二年に斉公、黄初三年に平原王に封じられていますが、たとえば漢の明帝や魏の文帝など、普通では太子が封建されることはありません。
甄夫人の誅殺が黄初二年、曹叡が魏王朝から最初の爵位(斉公)を与えられたのも黄初二年。庶長子曹叡が封建されたということは、おそらくこの時点での曹叡は太子候補から(表向き)脱落していたのではと思います。
それに対して曹蕤は、兄弟で唯一文帝期に封建されなかった人物です。
北海悼王蕤、黄初七年、明帝即位し、立てて陽平縣王と為す。太和六年、北海に改封す。青龍元年薨ず。
文皇帝の九男、甄氏皇后は明帝を生む、李貴人は贊哀王協を生む、潘淑媛は北海悼王蕤を生む、朱淑媛は東武陽懷王鑒を生む、仇昭儀は東海定王霖を生む、徐姬は元城哀王禮を生む……(『三国志』武文世王公伝)
曹蕤は文帝期で唯一封建されておらず、かつ明帝即位に伴って初めて封建されています。
そして曹丕の妻妾のうち*1、郭皇后や李貴人などには子がおらず*2、曹蕤の母親である潘淑媛がこの時点で(子を産んだ側妾として)最上位に立っていました。
つまり黄初二年から文帝が亡くなるまで、暫定的ではありましたが嫡子に最も近かったのが曹蕤であり*3、彼のみが封建されていなかったのも太子の慣例に従ってのことだったと推測できます。そして正妻である郭皇后に子ができなかった以上、嫡長子相続に則って文帝崩御の際に立太子されるべきは曹蕤であり、ある意味ではむしろ曹叡は庶子でありながら相続の序列を越えて太子に指名されたと言えるのかもしれません。
ですがまあ妥当に考えるなら曹蕤はあくまで仮の嫡長子と言いますか、一応の太子候補としての表向きポーズであり、実際には曹叡・曹礼・曹霖などが水面下で争っている状態だったと思います。
*1:生前の甄氏は曹丕の妻妾のうちどのくらいの地位にいたのでしょう?子が即位したのであたかも正夫人のようにイメージしていましたが、考えると『三国志』中でそれが明確に書かれている箇所を知りませんでした。実は妾だった甘皇后のように"母は子を以て貴し"により後付けで格上げされただけで、生前の甄氏の地位はあまり高くなかったのでは?
*2:李貴人の子曹協はすでに亡くなっています
*3:『春秋公羊伝』に拠れば、兄弟の序列はまず"母の貴賤"に拠り、続いて"長幼"に拠るのだそうです。この場合では曹蕤以上に貴い母を持つ兄弟がいませんので彼が嫡子になりますが、もし仮に郭皇后が子を産めば、それが1歳の嬰児だとしても、嫡子の座はその子に奪われてしまいます。