三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

皇族筆頭その3 【曹楷】

 曹楷は曹彰の子で、223年に父が亡くなって任城王の位にありましたが、何より孫盛『魏氏春秋』において皇帝曹芳の父親と指摘されている人物であります。
 もし『魏氏春秋』の通りなら、なぜ曹叡はいきなり初代皇帝の系統ではない曹芳を後継ぎにしてしまったのか、ずっと疑問に思っておりました。曹芳のあと四代目を選出する際に、郭太后司馬師の推す曹拠(曹丕の弟)に難色を示したという話もあります*1。せめて同じ曹丕系統である自分の弟たちから養子を取らなかったのか、曹丕の血をこんなに早く皇統から絶やしてよいものなのか。
 しかし改めて考えてみるに、明帝が崩御する時点で曹丕の系統は賛王・饒安王・東海王・梁王・魯陽王の五系統がありました。ところが饒安王・梁王・魯陽王は他家(非曹丕系統)からの養子が継いでいるので、実質曹丕の子孫は賛王曹尋・東海王曹霖しかいなかったのです。
 すると曹尋を後継ぎにしようか、と思えば彼はかつての嫡子曹協の子であり、さしずめ漢の安帝・宣帝…ほどではなくてもあまり気持ちのいいものではありません。
 また東海王は当時では明帝の実弟曹霖が存命でした。これも後継にし難い。


 一方で曹楷はいかがでしょう。父の曹彰曹丕に次ぐ兄弟であり、皇族の中でも家柄は高い。何よりこの時、先ほど挙げた曹丕五系統のうち梁王・魯陽王は曹楷の子なんです*2。つまり曹芳(と曹詢)も含めますと、曹丕の子孫系統はその半分以上が実際のところ曹彰(曹楷)の系統に替わってしまっていたのです。
 そうなりますと曹芳が即位した場合、父(任城王)と兄弟三人(元城王・邯鄲王・秦王)の四人の諸侯で補佐する体制になり、しかも中央の方では大将軍燕王曹宇・夏侯献・曹肇・曹爽・秦朗・夏侯恵という宗族のサポート。いかにも宗族重視の曹叡らしいですが、何より養子即位では少なくなりがちな皇帝の兄弟諸侯を、息子4人も養子に出す大盤振る舞いでクリアした曹楷の力が偉大です。*3もうお前が明帝でいいよ


 もちろん任城王の列伝や本紀にそれらしい様子がまったくないので上記の仮説は現実のものとは言えませんし、あったとしても曹宇らのように頓挫したのでしょう。しかしこのように仮定してみれば『魏氏春秋』が曹芳を曹楷の実子と考えたこともわからないではなくなります。
 ちなみに曹楷は魏晋革命まで元気でして、曹芳含む息子三王も健在でした。そういう意味でも皇帝とその周辺として相応しかったのではとか思っちゃいます。

*1:『魏略』による。ただこれは曹拠が曹叡より上の世代にあたるとの理由の方が大きいそうですが

*2:残りの饒安王はみんな大好き曹均の孫

*3:右の図は、曹叡崩御時の曹丕系諸侯王の系譜です。太字になっている人物が当時存命だった諸侯で、また赤字になっているのは曹彰の子孫になります。ご覧の通り、曹丕の子孫が2人、曹均の子孫が1人、そして曹彰の子孫が3人。しかもその曹丕系の2人もこの後どちらも事実上絶えてしまうという有様で、いかに曹魏初代皇帝の子孫が貧弱だったかが分かります