三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

曹魏皇族の侯

 曹魏の皇族は原則として王・公に封じられ、逆に曹魏の王・公も皇族に限られていたようです*1
 ですが一時的に侯に封じられていた皇族がわずかにおりまして、この侯の爵位をどう見るかが目下問題になっております。臣下が与えられていた県侯などと同様の「列侯」と考えるか、それとはまた違った「皇族限定の特別な侯」と考えるかです。
 守屋美都雄先生の「曹魏爵制に関する二三の考察」という論文ではこれを「特別な侯」、すなわち五等爵の二番目たる侯(以下、五等侯)だとし、王・五等公・五等侯は皇族に限定されていた爵位だとしています。また文帝紀に見られる「亭伯」の記述から五等伯も存在し、さらにはそこから子・男も想定してよいのではないかと結んでおりました。しかし『晋書』によれば曹魏では五等爵はなかったとされ、また仮定に仮定が重なるこの論には疑問点も少なからずあります。ただ曹魏初期に"亭伯"という従来にはなかった爵位が考えられていたことは事実であり、以下に挙げる曹魏皇族の侯もその"亭伯"と同様の、五等の新爵制導入に向けた試みのひとつだったのかもしれません。


(1)曹植・・・安郷侯・鄄城侯(221)
 貶めて安郷侯とされたとありますので、漢からの爵位である臨菑侯から降格されたのでしょう。


(2)曹蒴・・・訒侯(〜221)・都郷侯(237〜238)
 それまでは己氏公でしたが、景初元年、中尚方において禁物を作ったとの罪で食邑300戸削除と併せて都郷侯に降とされました。分かるようで・・・よく分からない理由です。
 なお同年に同様の理由で曹拠もまた咎められて2000戸も失っており(爵位はそのまま)、関連が気になるところです。他、曹楷(曹彰の子)がこちらは青龍三年ですが、同様の理由で2000戸削減(2500戸→500戸)に遇っています。中尚方関連の罪とはどんなものなのか、気になるとこです。
 訒侯に関しては後述の通りです。


(3)曹壱・・・済陽侯(221〜222)


(4)曹敏・・・臨晋侯(〜223)


(5)曹範・・・平氏侯(222)・成武侯(223〜228)


(6)曹抗・・・樊侯(〜221)


(7)曹茂・・・平輿侯(〜221)


(?)曹叡・・・平原侯(223?〜226?)
 曹叡に関してはこちらの「降格されなかった諸王 【曹植と曹叡】」の記事をお読みください


 お馴染みの曹植と曹茂を除いた5人は、いずれも始封者の早世に伴って相続していた人物(実子養子問わず)です。(1)・(3)・(5)は魏代に入ってから改めて侯に封じられており、それ以外は後漢爵位を安堵されている形だったのだと思います。
 以上の7人は全員がその後それぞれ昇格していきますが、昇格は郡王・県王・公とまちまちで、また昇格時期もバラバラ。殊に曹範などは明帝期まで昇格を待たされていますからね。
 つまり曹魏最初期では諸侯のランクは郡王・県王・公・侯の4ランクがあった訳です。それが文帝中期〜明帝前期は王・公の2つのみにされ、また明帝が郡王を復活させた形になります。

*1:ちくま訳を読むと臣下にホイホイ公爵をあげちゃってるんですけどこれ誤訳なんでダマされることございませんよう(笑)
「ヤベェ!これは超新発見!」
興奮して記事にしたことがあったんで……。
たとえば卞隆(卞皇后の父)の睢陽郷公、夏侯佐(夏侯惇の孫)の高安郷公、曹闡の郿侯、曹竦の陽都郷侯、曹賛の昌郷侯、劉康(劉協の孫)の桂氏郷公、関羽の諡の壮穆公などは全て公⇔侯のミスです