蜀郡趙氏D-2 【趙温②】
趙温が司徒に就任した翌年、李傕と郭艴の抗争が本格化し、三公以下重臣はその火消しに奔走することになります。趙温もまた傍観していなかったようです。
それは李傕が献帝拉致を謀った時、趙温はきわめて強い言葉でそれを諫めます。それを渡邉先生の翻訳で引くと、以下の通りであります。
「公(李傕)はさきに董公のために仇を討つと称しながら、それなのに実は王城を攻め滅ぼし、大臣を殺戮した。(中略)いま郭艴とくだらない恨みを争って、とても重い仇敵となった、人々は塗炭の苦しみにあり、それぞれ生きた心地もしないのにも拘わらず、それでも悔い改めず、ついに争乱を起こした、朝廷はしきりに明らかな詔を下し、和解させようとしたのに、陛下の命令は行われず、威厳は日々に損なわれた。そのうえまた陛下を移動させ、改めて行くべきではないところに行幸させようというのは、この老夫には全く理解できないことである」*1
これに李傕は激怒し、趙温を殺さんと欲したものの、従弟の李応が趙温の故掾だったことから弁護したため、辛うじて赦されました。『三国志』注には、この時には献帝も趙温の生命を危ぶみ、侍中から李応のとりなしの件を聞いてやっと安心した、とあります*2。
再び時間が大きく流れ208年正月、趙温は司徒を罷免されています。
罷免の理由は曹丕を司徒掾に辟招しようとしたために、選挙不実を責められたからと、『三国志』文帝紀などにはあります。しかし実際のところは、同年6月に三公が廃止されてますので、その布石ということだったのでしょう。建安以来、太尉は空席のままで、形だけとはいえ司徒趙温・司空曹操の二頭状態でした。*3
しかし司徒の位にあること15年。後漢の三公として最長です。後漢末の戦乱にも関わらず、特に李傕政権の司徒であるにも関わらず、許都でもその地位にあったことは全く意外です。同僚であった太尉楊彪と司空張喜は建安元年に罷免されてます。さすがに曹操も、天子奉戴直後から地位を独占する訳にもいかなかったからでしょうか。それでも随分ほっとかれたものです。
そして三公を罷されたその年に趙温は亡くなります。72歳でした。*4
趙温の死後、後漢末に栄えた蜀郡趙氏はその姿を消します。
『華陽国志』によれば、代々二千石を輩出する家系になったとありますが、正史の表舞台に現れることは二度とありませんでした*5。