蜀郡趙氏A 【趙戒】
字は子伯。父は趙定。*1
謝承『後漢書』によれば趙戒は「経学に詳しく」、「荊州刺史となり梁商の弟である南陽太守を弾劾し」、「各地の太守として不法な豪族と宦官縁故の者を免職する」など剛腕清廉の官僚として描かれています*2。
ですが『後漢書』本紀に書かれる趙戒像はまるで異なり、范曄からは「李固に比べたら胡広や趙戒などはクソだ」という感謝の煽りまでいただいております。このギャップは一体何なのでしょうか?
『後漢書』本紀に見られる趙戒は、
141年、太僕から司空へ
146年、司空から司徒、加えて参録尚書事
147年、司徒から太尉へ(〜149年)
152年、黄瓊の後任として特進から司空へ(〜153年)
このように司空から三公を一巡り。141年から159年にかけての梁冀時代を代表する閣僚であります。
特に注目は146年、これは質帝毒殺の直後であります。
当時の三公は太尉李固・司徒胡広・司空趙戒であり、質帝の後継者を巡って、当初三公たちは清河王劉蒜を主張していました。ところが、梁冀が宦官曹騰らをバックにして桓帝を強硬に推戴するや、趙戒・胡広がそれに屈してしまいます。一方で李固は命をかけて反対、結果は獄死。桓帝即位が決定します。*3
この功を以て趙戒は廚亭侯に、胡広は楽安郷侯に封ぜられ、この後も二人とも梁冀政権下で三公を歴任していくことになります。合わせて約13年、范曄がクソ呼ばわりしていたのは、この外戚梁冀に対する屈服の事ということです。
さて趙戒は153年に司空を罷免されて以降は記録がありませんが、『華陽国志』によると間もなく亡くなり、文侯と諡されたとあります。
一方でクソの相方である胡広は、159年の梁冀誅殺に連座して三公を罷免されます。しかし意外にも166年には司徒に復帰、さらに169年、党錮の禁で陳蕃が誅されると代わって太傅録尚書事に就任。そして172年に在官のままに死去。享年82でした。諡して文恭侯。
胡広は梁冀に対して妥協を選び、さらに中常侍丁粛と姻戚関係にあるなど「濁流豪族」という言葉に従えばまさにピッタリの人物であります。ところが一方では陳蕃や李膺ら当代随一の清流派を故吏に持ち、また蔡邕に対しても影響を与えた大学者でもありました。
范曄はあの様に罵りますけれど、儒家官僚が外戚と対決することはとっても難しいことであります。それに若き日に発揮した剛腕ぶりなど、決して"おもねった"の一言では終わらない人物であると思います。
趙戒はなぜ梁冀に妥協・屈服せざるを得なかったか(そしてその割には梁氏と連座しなかったのは何故か)、気になるところであります。