蜀郡趙氏B-2 【趙典②】
桓帝の初期、親梁冀の権道派としてデビューした趙典でしたが、父と梁冀が世を去ると、次第に清流派官僚の片鱗を見せ始めます。
特にその桓帝代後半に出された、皇帝の恩寵によって諸侯となった者を非難する上奏が印象的です。表向きは功無き者が諸侯になると言う、劉邦の規制に反する者への弾劾ですが、実際のところ皇帝の恩寵とは、つまり宦官が列侯に封じられた件を批難しているのではと、僕は思います。しかし桓帝はこれに肯首しませんでした。
さて続けて趙典伝は太常への異動を記し、趙典が桓帝の信頼厚かったこと、趙典の賑恤行為を紹介した後、唐突に「諫言して帝意に背き、免官された」と筆を変えます。趙典伝だけ見るとまったく突然の罷免ですが、おそらく桓帝紀と荀爽伝を案じますに、これが一次党錮なのでしょう。*1
そして党錮の禁が解除され切らない翌年の永康元年、桓帝が崩御します。この時「在国の諸侯は帝の弔問に来てはならない」という命令が出され、趙典も国元に留め置かれるはずでしたが、ところが趙典は印綬を返還、「今から諸侯じゃないから」と言わんばかりで洛陽に駆け付け、桓帝への忠を示しました。
趙典の列侯爵は父から継いだものですが、そもそもは桓帝擁立によって与えられたものでした。その桓帝が崩御した今、爵が枷となって肝心の桓帝に報恩できないのならば、むしろ返上すべきである、ということでしょうか。趙典の忠を公卿百官は高く評価し、朝廷もそれを大きく咎めることはできませんでした。
霊帝が即位すると復職して長楽少府、長楽衛尉に就任*2。
さらに百官によって国師*3に推されますが、おりしも病気を発して薨去。竇太后は彼のために弔問の使者を発し、献侯と諡されました。二次党錮には遭っていないことから、おそらくその直前の死だったのでしょう。
以上が『後漢書』趙典伝のあらましでありますが、しかし本伝には重要な事柄が欠落しております。
それは、趙典が後世に三君八俊のひとりに数えられる、当代きっての清流派人士であったことです。趙典伝には八俊の文字はおろか、清流党人であることを窺わせるような記述すら全くないのです。