三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

蜀郡趙氏B-1 【趙典①】

「趙典は字を仲経、蜀郡成都の人。父の趙戒は太尉となり、桓帝擁立によって廚亭侯に封じられた。」*1
 清流人士の筆頭グループ、八俊の第七位、趙典の列伝はこの様な書き出しで始まります。
 范曄が趙戒を「糞土の如し」と書いたことは先日の通りであり、それは彼が桓帝擁立に関わったからでした。その、彼が好ましくないと考える事件を列伝の冒頭に記すということは、なにか范曄が趙典伝に対して含みがあるのではないか、と僕は気になっています。


 趙典は建和の初め、四府、すなわち大将軍府・司徒府・司空府・太尉府<より推挙されて議郎として徴召されます。四府の推挙とは当時の官僚登用としてはかなりの待遇でありますが、その実、この大将軍とは他でもない梁冀であり、三公は胡広と袁湯と、そして実父趙戒。建和は桓帝即位直後、まさに梁冀が自政権を盤石に固めた時期でありました。そんな時期に八俊・趙典は、梁冀に与する三公の子弟として官界にデビューしたのです。


 趙典は弘農太守、右扶風を歴任。しかし突如「公事をもて官を去り」ます。と言ってもその後も城門校尉から大鴻臚や太常まで、実に順調に官職を進めていますので、特に深い意味のない解任のように思えるのですが、一方でこれは時期的に梁冀誅殺に伴う解任なのではとも思うのです。
 趙典のキャリアのうち職を解かれたことは二度、二度目は桓帝最晩年ですので、もし趙典が梁冀に連座することがあるとしたら、それはこの一度目の解任でしょう。三公として、あれほど梁冀に接近していた趙氏です。胡広と違い既に宰相職からは離れていましたけど、多少の影響が及んでも不思議ではないと思います。
 とは言いましても、仮にそうだとしても、前述のようにすぐ中央の要職に戻されてますけど。間もなく三公に復帰した胡広然り、儒家官僚と外戚との関係について、今まで持っていた善/悪、清/濁といった二元的なイメージとはちょっと違うみたいです。

*1:字と名で"経典"とは。