蜀郡趙氏B-3 【趙典③】
前記事で見た通り、『後漢書』趙典伝は、彼の最期を「(国師に推されたが)たまたま病死した。諡して献侯」と書いています。
しかし同伝李賢注に引かれる謝承『後漢書』が、「竇武、王暢、陳蕃らと宦官誅滅を図るも、失敗して獄に下され、自殺した」と真逆の結末を書いているのです。異説と言うには全く全く真逆の最期です。
このことから、前者の「范曄の趙典」と後者の「謝承の趙典」は別人なのではないか、という議論が起こりました。
さらに問題を複雑にした事が、范曄『後漢書』党錮伝にあります。
党錮伝序文はその最後で、「三君八俊以下35人のうち、ただ(八俊の)趙典は名が見えるのみ(で出身地や事蹟はわからない)」としているのです。*1
党錮伝は、三君、八俊、八顧、八及、八廚という、いわゆる清流派「党人」らの事績を扱う列伝であり、三君以下35人の党人は、ほぼ全てここに列伝が収められています。
しかし八俊の趙典のみは事績が分からない、と范曄は述べます。
もちろん、范曄『後漢書』には、独立した趙典列伝があります。にも関わらず、この様に説明するということは、「八俊の趙典」と「趙典伝にある趙典」は別人である、と范曄が表明していることになります。
しかし、『後漢書集解補』が洪亮吉、李慈銘らの説を引いて反論するように、この時代に二人の趙典があり得ないことであります。『華陽国志』、『後漢紀』、その他もろもろの史料も明確に、八俊の趙典が、蜀郡出身の趙仲経であることを述べています。
つまり范曄が、意図的に、「八俊趙典」を趙典列伝から切り離していたということです。
なぜでしょうか。