三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

吉川英治『三国志』(3-a) 〜董卓の乱

 北方、宮城谷、蒼天航路、無双、、、
 などなど各ジャンル様々な"三国志入門"が躍動する現代にあってもなお色褪せない吉川三国志を改めて読み返してみた感想です。


●定州の劉恢
 『演義』でちょこっと登場する架空の人物ですが、安喜県尉を棄てた劉備たちを保護し、また劉虞に斡旋して再浮上のきっかけを与えた、さり気ないですが重要人物です。以前"劉璧"についてちょっと書いた時、「劉備が天下の劉氏に依拠していくのは民間説話ではひとつのテンプレートなのかも」というアドバイスをいただきましたが、もしかしたら劉恢も『演義』以前の講談や演劇では活躍していたのかもしれませんね。
 その辺を知ってか知らずか、吉川先生は劉恢を使って大胆に創作を挿入されています。これ以降、『演義』では劉備一行が表舞台から一時離れてしまいますので、その前に区切りを、という事なのでしょう。
 張飛の意外なコネ、芙蓉姫の再登場など、かなり好きな場面です。本当、吉川色が濃く出ると張飛は輝きますね。
 またこの劉備と芙蓉の逢瀬を見た関羽の心情は、中国説話で有名な、関羽貂蝉を斬るエピソードを思い出させます。


霊帝について

 霊帝は不幸なお方だった。
 何も知らなかった。十常侍たちの見せる「偽飾」ばかりを信じられて、世の中の「真実」というものは、何ひとつご存じなく死んでしまわれた。
 十常侍の一派にとっては、霊帝は即ち「盲帝」であった。傀儡にすぎなかった。玉座は彼等の暴政をふるい魔術をつかう恰好な壇上であり帳であった。*1

 非常に印象的な、吉川先生が霊帝贈る言葉です。現代から見れば無難な霊帝評かな、という程度かもしれませんが連載していたあの40年代にこの文章と考えますと、ちょっと想像力をかき立てられてしまいますね。
 また話は逸れますが、この辺りでは『演義』や『通俗』で煩雑だった霊帝崩御前後の中央動向を全体的に削減し、代わりに上記のように劉備の動きを増しています。劉陶の諫言、董太后と何太后の対決などは丸々カットされていますし。単なる『通俗』の写しではない、現代日本人向けにより読みやすく仕上げようとする先生の工夫が窺えます。


●何顒

董卓は、かくて、威圧的に百官に宣誓させて、また、
「侍中周珌!校尉伍瓊!議郎何顒!――」
と、いちいち役名と名を呼びあげて、その起立を見ながら厳命を発した。
……三将のうち、二人は命を奉じて、すぐ去りかけたが、侍中周珌のみは、
「あいや、おそれながら、仰せはご短慮かと存じます」*2

 董卓が逃亡した袁紹を追撃させようと命じる場面ですが、ここで何顒の名前が挙がるのは不思議です。何顒は汝南名士グループの中心であり、曹操荀紣らを評価し、袁紹とは友人であり、董卓に対しては暗殺を図るも獄死したという、まさに後漢末を代表する「名士」であります。この場面の様にいかにも董卓配下の部将っぽく、しかもあっさり袁紹誅殺を飲んでしまうような人物とは程遠い人です。
 これを李本や『通俗』で見ますれば、単に董卓袁紹を如何としたものかと3人に諮問する場面になっています。それを吉川先生が勢いをつけて、董卓袁紹誅殺を命じる場面へと変えたものですから、機転を利かせた周珌はより強調される一方で、本来は一緒に出席していただけの何顒がワリを食ってしまった訳です。
 ちなみに毛本では、何顒の名前が削られておりこの場面では登場しません。

*1:講談社文庫版(1980)第一巻p255

*2:講談社文庫版(1980)第一巻p304