吉川英治『三国志』(3-b) 〜董卓の乱
北方、宮城谷、蒼天航路、無双、、、
などなど各ジャンル様々な"三国志入門"が躍動する現代にあってもなお色褪せない吉川三国志を改めて読み返してみた感想です。
●曹操の家系
「――しかしそれがしは、遠く相国曹参が末孫にて、四百年来、漢室の禄をいただいて来た。なんで成り上り者の暴賊董卓ごときに、身を屈すべきや」*2
「曹家は、財産こそないが、遠くは夏侯氏の流れを汲み、漢の丞相曹参の末流です。この名門の名を利用して、富豪から金を出させてください」*3
曹操の家柄といえば一般的には富家ではあるけど名門ではない、とイメージされていると思いますが、吉川先生はその真逆に財はないけど名家であるとの描写を特に盛り込んできます。この段階では彼が宦官の孫だという話も出てきませんしね。曹操イメージアップのひとつでしょうか。
ところで曹操の家系と言えば、夏侯惇と夏侯淵が兄弟に、曹操・曹仁・曹洪が兄弟になっていますがこれは『通俗』に拠ったものです。
●陳宮
『三国演義』では中牟県令だったのに、吉川では関門の隊長に降格されちゃった陳宮。これは『通俗』が県令を「奉行」と訳したことで、吉川先生が関所の責任者かなんかだと思ってしまったからでしょう。
そして吉川陳宮、最大の違いは呂伯奢事件の後も曹操の元に留まっていることです。反董連合の檄文まで書いてしまっているあたり、吉川先生が陳宮を重視しようとしていた様子が窺えます。が、残念なことに陳宮はこの後一旦姿を消してしまい、曹操の徐州攻めで再登場する時には「君は道中で私を見捨てたではないか」と、呂伯奢事件以降の陳宮はなかったことにされてしまったのでした。
●vs華雄
『三国演義』において関公斬華雄はまさに序盤最大の見せ場であり、次々と破れる味方のかま猛将たち、本陣の緊張感、関羽と華雄の対決を直接描写しない演出、温かなままの酒など、印象的な描写が多く盛り込まれています。
その中でも、関羽と華雄の一騎討ちを敢えて帷幕の中から雰囲気を窺うのみで描くと言う、間接描写の演出は大変おもしろく思います。こないだツイッターにて、あの演出は舞台を意識していたのではという興味深いお話を教えていただきましたが、なるほど関羽が馬を駆って退場し、華雄の首を持って颯爽と戻ってくる場面はいかにも演劇の一幕を想像させますね。
さてこの間接描写の手法、ご覧のように吉川三国志にも受け継がれているのですが、意外なことに吉川の種本『通俗三国志』では違っています。
関羽申しけるは、まづ華雄が首を取来て、此酒を飲べしとて、八十二斤の青龍刀を提げ、馬を飛ばして馳せゆく、……敵の大勢を八方に追散らし、猛虎の千羊の群に入るが如く、直ちに中軍に蒐入て、只一刀に華雄を斬て落し、首を取って引返すに、数万の敵軍その威風に畏れて、近付く者ぞ無かりける、関羽徐々と本陣に回り、華雄が首を座の真中に投出して適の酒を飲けるに、其酒猶温なり。
このように『通俗』では関羽の活躍を直接に書いてるんです。
執筆の傍らにした『通俗』ではなく、原典『三国演義』に近い手法を敢えて採用したということは、吉川先生にとってもこれが印象的な場面であったことが窺え、また同時に先生が何らかの形で『通俗』以外の三国志を参考資料にしていたことが分かります。
●校尉・黄琬と僕射士・孫瑞(第二巻p103)
割と有名な勘違いですね。いかにも武官っぽい雰囲気になってしまいましたw
特に士孫瑞などは、士孫姓が彼以外にほとんどいないこと、また尚書僕射という聴きなれない上に「僕」「射」などいかにも武官っぽい字面、これではその下に士の字を付けたくなる気持ちもわかりますw