三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

長沙の劉氏、劉封

劉封はもと羅侯の寇氏の子にして、長沙劉氏の甥なり。
先主荊州に至り、未だ継嗣あらざるを以て封を養い子と為す。 


 自分これまで劉封の出生を「羅侯の寇氏の子」「異姓養子」という印象を強く持ちすぎて、長沙劉氏の甥であるという設定を完全に見逃していました。関さんが余計なこと言うから・・・。
 ですから異姓養子と言えども実際には―ツイッターでT_Sさんに指摘していただきましたが、「母族の養子になってその母族の跡を継ぐ」という、当時ではそう珍しくもない事例だったんですね。そして養子にした当時には劉備に子がおらず、またその後にも嫡子はとうとう生まれませんでしたから、劉封にもワンチャンスがあったかも知れませんね。


 ところで気になるのは劉封の母方系統「長沙劉氏」です。
 長沙で劉氏とは言わずもがな、景帝の皇子、長沙定王劉発を思い出させます。その傍系から光武帝更始帝が出た、あの長沙王家です。
 長沙王家は後漢初まで存続し、光武帝建武13年に臨湘侯に降格されてます。ですが臨湘県は長沙郡ですから依然として元長沙王を中心とした一族はこの地に留まったものと思われます。*1
 それで『後漢書』にざっと検索をかけたところ、長沙郡劉氏には以下のふたりがいました。
 ひとりは劉寿。順帝期の永和3年から漢安元年まで司空にありました。彼はまさしく臨湘県の人ですから、もしかしたら長沙王の後裔かもしれません。
 いまひとりは劉囂。建寧2年から3年まで司空でした。彼は霊帝期の人なので、劉封とも時代的に近しい人です。
 劉備が養子として取り込んだ少年は、そのような有力宗族の枝葉だったのかもしれません。

*1:ちなみに羅県も長沙郡です