吉川英治『三国志』(4) 〜呂布の死
北方、宮城谷、蒼天航路、無双、、、
などなど各ジャンル様々な"三国志入門"が躍動する現代にあってもなお色褪せない吉川三国志を改めて読み返してみた感想です。
呂布の乱なのに感想があまり・・・ない、、
●手製の玉璽(講談社文庫版(1980)第2巻p237)
けれど、官職を下賜されるには、玉璽がなければならない。……李楽は、そんな故実などは認めない。玉璽というのは、帝のご印章であろう、それならここでお手ずから彫らばすぐ間に合うではないかと無茶なことを云う。……帝は、……手ずから印をお彫りになった。
『後漢書』、『三国演義』、『通俗三国志』などなどで見られる、李楽が献帝に官職を強請るシーンです。
玉璽がないから官職を授けられない⇒なら帝が彫ればそれが玉璽にあるだろう、という理屈であります。
しかし『通俗』以下この場面本来の意味は、官吏に与えるべき印綬が足らなくなったから急造で彫った、ということです。印綬ってのはその名の通り、ハンコとヒモからなる、官吏の身分証と言ったところでしょうか。
玉璽うんぬんは吉川先生の勘違いかオリジナル演出か。ただこの当時玉璽は孫策の元にあったことが後々判明しますので、それに対する伏線として改変したのではと思います。
●厳与(2巻p356)
厳白虎の弟、厳輿です。
今漢籍電子文献を見ますと
"輿"の字
が正しいようですが、吉川三国志のどこかの段階で
"與"の字
に勘違いされ、それが俗字となって厳与となったわけですね。
●于禁の爵位に関して(2巻p424)
宛城の戦いの後に于禁が"益寿亭侯"に封建されることは『三国志』『三国演義』いずれでも同様です。
ですが『通俗三国志』がここを勘違いして"寿亭侯"としているんです。関羽病っすなあ。
では『通俗』を種本とする吉川三国志も同様に間違えているかと思いきや、意外にも正しく益寿亭侯としているのです。どういうことか。漢の寿亭侯ネタを知っている人が注意深く読めば、確かに気づく程度の『通俗』のミスでしょう。ですが新聞連載をする多忙な先生がこんな重箱の隅に気づき訂正するでしょうか?となるとこの辺の箇所は『通俗』以外の何らかを参照していたのでしょうか?
このように吉川三国志では、もちろん大体では『通俗三国志』に拠っているのですが、時々それだけでは説明が難しい様な、大変細かい箇所での異同があるのです。もっと詳しく初出や周辺資料を当たってみなくてはなりません。