三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

吉川三国志、修正された序文

 昨日に引き続いています。
 「三国与太噺」‐吉川三国志、新連載の予告記事


 吉川英治三国志』はそのアタマに、吉川先生による「序」を収録しています。これはそもそも昭和15年、最初の単行本化に際して書かれたものであり、以降『三国志』が再版される度に必ず附されてきました。
 ところが実は再版を繰り返す中で二度、この序文に手が加えられていたのです。
 すなわち一度目は昭和27年、六興出版社(六興八巻版)から出た時。この時は以下の文章が削除されました。

・従軍二回、北支中支の黄土を踏んでから、私は、少年時代にも耽読した三国志演義を、もういっぺん読み返してみた。そして、再読して得た大きな意義と新しい興味を覚えて、遂にこの執筆を思いついた。
・多少なり興亜の大業の途にある現下の読物として、役だつ所があれば望外の倖せである。
・昭和十五年初夏於草思堂

 1ツ目は執筆の動機を語ったものであり、これまで削ってしまうのは、現代から見ればちょっと過敏な気もしますが、やっぱり難しい時期だったのでしょうね。


 二度目の修正は昭和41年、先生が亡くなられた後。最初の全集収録の時です。ここでは表記の一部が以下のように改められました。

支那→中国
・民族→民俗*1
皇紀八百年頃→西暦百六十八年頃

 以上改変6点、見ての通り戦時中を窺わせる表現ばかりです。昨日紹介した予告記事同様、作品が書かれた時代背景を偲ばせます。*2
 とは言いましても、前回の記事にも言えることなのですが、これらを以て吉川先生の本質だとか吉川三国志の真意だとかを汲むのはちょっとどうでしょう。昨日はたくさんのブックマーク・タグをいただいたのですが、やはり皆さん注目されたのはそういう部分でした。
 もちろん先生には先生の国家観があったと思われますし、それは今後の課題にと考えています。しかしなにしろ商売の広告文ですし、それにマスメディアに属する人ならあれくらいは・・・。むしろ先生はその中でも率直に三国志への愛着と中国への興味を書かれているように、自分は感じました。


 ですから残念なことがあるとすれば、それはこれら戦前の面影が今日の出版では見られなくなってしまったことですね。表現にはその時代ごとの適切な配慮が欠かせないこと勿論だと思います。現代であっても、あの様な文章があればそれはもう注目を集めてしまうであろうこと、上記の通りでしょう。いわんや三文章を削除した「六興八巻版」は、戦後に初めて刷られた吉川三国志でした。
 しかし一方でこの連載が昭和14年に始まったこと、序文が15年に書かれたこと。そういった執筆当時の実像や時代性が隠れてしまうというのは、現代の鑑賞の上では勿体なくも思った次第であります。*3

*1:例を挙げますと「見方に拠れば三国志は、一つの民族小説とも言える」など。

*2:もっとも、戦時風の表現の全てが改められた訳ではないようです。霊帝の治世を指す「皇紀八百年頃」を西暦に改めたのは上記の通りですが、同じく霊帝代を喩えて「わが朝の成務天皇の御世」と書いていることは現在でもそのままだったりします。

*3:『吉川三国志』関連の論文を読んでいると、どうやらこの序文を読んでないらしいというものも見かけます。