久保天随『新訳 演義三国志』序文の要約
久保天随『新訳 演義三国志』は、それまで湖南文山訳『通俗三国志』(李卓吾本訳)が大勢を占めていた日本においてし、初めての毛宗崗本完訳として1912年に出版されました。またあの吉川英治が少年の頃に愛読したとされていることでも有名です。*1
この叙説では、初めて毛宗崗本に取り組もうとした天随氏の意気込みが見られる他、当時の『三国演義』や『通俗三国志』に対する理解が窺え、すごく興味深いです。なかなか手に入りにくい本ですので*2、大雑把ですがその要約をしてみました。興味深い所は太字にし、個人的な感想は文末注にまとめました。また各段落の表題も自分のものです。
(一)『三国演義』と羅貫中
『三国演義』は元代の羅貫のよって作られた。一説では、施耐安が『水滸伝』を作った事に対し、その門人羅貫がそれに倣って三国志の演義を作ったという。なお『水滸伝』もあるいは羅貫の作とも言われているが、近年ではもっぱらに施耐安よるものとされている。
羅貫、字は本中。一説には羅本、字は貫中とも言う。杭州武林の人だが、元朝になると郷里に退去し、小説数十種を著した。作品には『隋唐演義』・『三遂平妖伝』などあるが、羅貫中を元初の一大作家たらしめているのはやはり『三国演義』である。
(二)『三国演義』と蜀漢
その執筆動機は現代では知る由もないが、しかし羅貫中は古来の史家の所論にあきたらないものがある。
曹魏が漢朝から禅譲を受けたことは、形式上確かなことであり、後世の通例となった。しかし実際には劉備が正統であることは後世が等しく承認することである。後世の人は正史を読むたびに、曹操を憎み劉備を悲しむ気持ちでいっぱいになるものだ。朱子の『通鑑綱目』などは唯一蜀に与するものであるけれど、それでもこの気持ちを満たすものではない。
そんな中で羅貫中は『三国演義』を著し、まさにその気を吐いたので、この書が世間に流行したのもそのためであろう。*3
(三)陳寿『三国志』から『三国演義』
『三国志』は晋の陳寿の撰であり、魏を正統とし、諸葛亮の人物を非難することについては後世の非難を受けてはいるが、史筆堂々、二十四史中でも有数の大作である。また裴松之の中も本書と併せて称えられている。
『三国演義』は正史『三国志』に拠っており、更に多少のフィクションを加えているが、しかし史実の意義を敷衍することはまさに演義の演義たる所以である。またこのようなフィクションは、必ずしもすべて羅貫中の構想によるものではなく、民間で語り継がれてきたものもまた少なくない。
羅貫中は正史の記述の他にこのような俗伝も広く採取し、さらに独創の新事実も加えて、この書を大成させたのである。その上に羅貫中は特に上古まで遡って格好の題材を選び取っている。『隋唐演義』などとも相まって、彼はまさに当代随一の文章家であったのだろう。
(四)『三国演義』評
この書は明代に至って『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』と並び四大奇書と称された。
現在(中国で)流行している毛聲山本*4の冒頭にある「金聖嘆の読法」は、『三国演義』を称賛すること過剰である。
「『史記』に劣らず、『東周列国志』『西遊記』『水滸伝』などはこれに及ばない。『西遊記』などと比べるとこれが妖魔のことの創作であるのに対し、『三国演義』は帝王の実録である。宜しく『三国演義』を以て才子書の第一とすべし」
概ね理解できるが、流石に『史記』に比べたり『列国志』に勝るなどとは言い過ぎだし、経書と小説を区別してないのも疑問である。
また称賛の一方で、否定的な評価もある。「甚だ浅鄙で笑える」「子供向けで士大夫の読物に足るものではない」と。ただこんなのは歴史小説の意義を知らない似非批評家の私言で取るに足らない。
一方で日本人はこのような極端な評はせず、比較的公平に見ている。
曲亭馬琴の曰く「虚実相半するも、陳寿『三国志』の通覧しがたいという欠点を克服して終始を通している。『三国演義』は作者の手で生まれたというよりも、さしずめ天作、自然の妙と言えるだろう」。
また前述のように『三国演義』は創作の箇所も少なくない。特に孔明は神仙の如く描かれ、本来の忠臣たる姿から遠ざかっていることは残念である。この他多々、要はキャラクターを立てようとしてかえって虚飾がすぎることあり、ここが『三国演義』の欠点ではある。
(五)『三国演義』のエディション
『三国演義』の刊本は少なくない。羅貫中の原本を今求めることはできないが、現存のものでは明の万暦本*5が最も善本に近いか。
現行流通しているものとしては李卓吾評点本と、毛聲山の評正本とがある。日本の『通俗三国志』は多分李卓吾本に拠っている。李卓吾本はその文の冗長であることが難点である。
毛聲山本は、その評語を章首と句間に挿入し、また冒頭に金聖嘆の序文と読法を記す。ある説ではこの評語は毛聲山への仮託であるとも言われているが、仔細に見てみるととても庸流の手とも思えず、他に確証がなき限りは毛聲山のものと考えてよいだろう。
なお毛聲山本が本文を改変したことはその凡例に詳しい。またその簡潔で品到を高めている文章はさすがである。まさしく『三国演義』の定本たりえるだろう。
(六)演義物
元曲でこの『三国演義』を題材にするもの少なくない。『水滸伝』が前代の事実によってることに対し、『三国演義』のような千年前の物語が並んで人気を博すことは、その後世への影響力が窺える。
羅貫中の『三国演義』は「演義」というスタイルの一例を確立し、『東周列国志』『両漢演義』『続三国志』『両晋演義』など、後代に演義小説に与える影響は大きい。羅貫中の文学史上における功績は特筆すべき価値がある。
(七)日本における『三国演義』
日本における『三国演義』の流行は『水滸伝』に比類する。その訳本の最古は湖南文山の『通俗三国志』で、全編を李卓吾本により、毛聲山は用いていない。また文章は必ずしも直訳でなく、陳寿『三国志』を参照して補っているところもある。*6「日本人の『三国志演義』」とも言うべき、その功績は大なるも、ただ原典の妙味が失われてしまっており、訳本として見ると疑問はある。
『通俗三国志』は元禄時代の刊行だが、天保の頃に池田東籬亭が校訂して再版した。ただ池田の校訂はわずかな字句の変換に留まっているので、やはりこの訳本は文山に拠る所が大きい*7。また葛飾北斎による挿絵も妙である。*8ちなみに帝国文庫版*9の弁言に「この『通俗三国志』は高井蘭山が演義本を和訳したものである」とあるがこれは誤りである。
『三国志演義』の意匠に影響された作品は少なくなく、特に馬琴の『里見八犬伝』が代表的である。その終盤に至ってはほぼ『三国演義』の謄写と言って過言ではなく、例えば上杉定正が里見を攻めて風火に敗北する所などは赤壁を彷彿とさせる*10。犬江親兵衛の関破りは関羽の五関斬六将で、犬川荘助が敵の矢種を獲る場面は孔明の十万本の矢である、など…。詳細をいちいち挙げればキリがない。
また『三国演義』そのものも、市井の講談として大いに流行したようで、この点でも『水滸伝』に匹敵している。
(八)毛宗崗本の翻訳
前述の通りこれまで『三国演義』の日本語訳はただ(李卓吾本訳の)『通俗三国志』があるのみだった。
対して自分の底本は毛聲山本であり、原則として直訳を心掛け、『通俗三国志』の様に自ら補った所もない。また原書の詩文などもすべて引用し、原書の体裁を損なわないようにした。ただし旧訳の優れた訳語などはそのまま残したりもした。*11
願わくばこれが『三国演義』和訳の成本にならんこと、これこそ私の初志なのである。*12
*1:と、よく言われていますが、実際はこの完訳に先立つこと6年前に出版された毛本抄訳バージョンの方が正しいと思います
*2:自分の家の近隣ですと東大の情報学環図書室に上巻のみ、国会図書館の近代デジタルライブラリーに下巻の一部のみがありました
*3:蜀漢正統論って、日本では根強いんですねー。この様な漢魏正閏論は、当時は日本の南北朝正統論争と絡めて考えられていたようでして、興味深い所であります
*4:いわゆる「毛注本」のこと。毛聲山と毛宗崗の親子による校訂だったのでしたが、現代では子供の方の名前を借りて「毛宗崗本」と呼ばれることが多いかと思います
*5:今言われている「周曰校本」のことでしょうか。となるとこの時は嘉靖本の存在は知られていなかったようです
*6:この時代で既に『通俗』はこの様に分析されていたのですね。昨日の桑原武夫先生の随筆では『通俗』を大きくプッシュしつつ、これらの事には触れられていませんでしたが…
*7:明治期には『通俗三国志』の著者として校訂者である池田東籬亭の名前が挙がることがしばしばあったようです
*8:正しくは北斎の高弟の葛飾戴斗によるものだと言われています。「戴斗」の号は元々は師匠の北斎が使っていたものだったため、このような勘違いが広まったのでしょう
*9:吉川英治が直接の種本としたバージョンです。自分の手元にも今あるんですけど、確かにこの通りの文章がありました。高井が翻訳したとの誤解は当時一部で広まっていたようで、例えば自分が以前紹介した『吉川三国志』の予告記事でもそれが見られます。上田望「日本における『三国演義』の受容<前篇」によれば、高井蘭山と池田東籬亭が同じような校訂作業をやっていた人物だから両者が混同されたか、と推測しています
*10:「馬琴の赤壁」については、以前にひろおさんの記事を引いて紹介しました
http://d.hatena.ne.jp/AkaNisin/20110323/1300812519
*11:以前この記事で、天随『演義三国志』が何故か『通俗』の誤訳を引き継いでいると触れましたが、こういうことだったのですね
*12:果たしてその志は成ったかどうか、これからまた勉強して調べていきたいと思います。ただ、この序文から30年後にあたる昨日の桑原先生の随筆を読む限りではちょっと残念な結果のようにも……。やはり毛本がその地位を李本から奪うためには、小川訳&立間訳を待たなくてはならなかったのでしょうか?