三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

幸田露伴校『通俗三国志』解題の要約

 明治期にとっても沢山出版された『通俗三国志』群*1の中でも代表的なエディションである幸田露伴校訂の『通俗三国志』です。
 東亜堂から明治44年に出版されており、「明治版『通俗三国志』」としては後発の部類ですね。上田望先生の分析によれば流行の第三期にあたり、有朋堂版や早稲田出版部『通俗二十一史』版、そして天随訳『新訳 演義三国志』なんかもこの時期の出版ですね。


 以下に要約した解題は幸田露伴自身によるもので、以前こちらで要約した久保天随の序文と併せて、当時の『三国演義』理解に関して興味深い文章であると思います。








 邦文の『三国演義』は、元禄年間の湖南文山の訳した『通俗三国志』を始まりとする。現在流通している「三国志」はこれに基づく。一般では前者を"片仮名本"と呼び、後者を"絵本"と呼ぶが、これは葛飾戴斗が挿絵を施したからである。*2


 漢が衰えて蜀と魏呉が天下を三分した。劉備は正義を、曹操は大略を、孫権は雄材を以て天下を争った。
 この三国のうち、陳寿は晋臣であるが故に魏を正統とし、司馬光もまた魏を正統とした。曹操を憎み劉備を悲しむ大衆は憤りを抱かざるをえなかった。朱熹の『通鑑綱目』になって蜀に与することになったが、なお大衆を満足させるまでには至らなかった。『三国演義』はそれらの鬱憤を発散さしめ、まさに中国の一大奇書と言えるだろう。*3


 今、『通俗三国志』は李卓吾本に拠ると思われる。例えば各章のタイトルが単行である所は李本に準拠したからだろう。対して聖嘆本*4は「宴桃園豪傑三結義、斬黄巾英雄首立功」といった具合に対偶になっている。
 しかし『通俗三国志』は必ずしも李本の直訳ではなく、文辞を簡潔にし、一方では日本的な彩色を豊かにして、分かりづらい所は丁寧に補っている。まさしく「日本の三国志」と言えるだろう。


附言。
 『通俗三国志』が高井蘭山の訳と言われることがあるが*5、それは『絵本通俗三国志』を校訂した池田東籬亭と混同したためである。また校訂した池田にしても、字句を改めることなどほとんどないので、やはり『通俗三国志』の文章は湖南文山の功績によるものだと言うべきであろう。


又言。
 文山訳には「姓氏一覧」と「通俗三国志或問」が冒頭にあるが、蛇足なので本書では全て省いた。*6

*1:明治〜昭和初期にかけて『通俗三国志』は盛んに出版され、「三国志」ジャンルの中心を築いていました。自分はこれらをまとめて「明治版『通俗三国志』」と呼んでいます。内容は江戸期の『通俗絵本三国志』と異なる所ないのですが、活版印刷という最新技術がもたらされたことにより、さまざまな校訂者とさまざまな出版社から多数出版されました

*2:後者が天保年間のいわゆる『絵本通俗三国志』ですね。これは旧来の『通俗三国志』を校訂して、仮名をカタカナからひらがなに改めています。なので文山の『通俗三国志』を指して片仮名本と呼ぶのだと思います。

*3:この論旨は久保天随の序文でもほぼ同じように書かれていました。

*4:いわゆる毛宗崗本ですね。金聖嘆の評があることから、この時代にはこう呼ばれることも多かったようです。

*5:帝国文庫版の序文でも誤って高井蘭山訳とされていました。上田先生の論文によれば、高井蘭山は『水滸伝』をカタカナ文から平仮名文へと校訂した人だそうで、同じく『通俗三国志』をカタカナから平仮名に改めた池田と似た仕事をしていたために混同されたか、と推測されています。

*6:「通俗三国志或問」については、ひろおさんのところに詳しくあります