『通俗三国志』の校訂は行われていたか
元禄年間に出版された『通俗三国志』は当時大変な人気であり、明治に至ってなお多数の出版社から繰り返し刷られていました。現在国会図書館が蔵書しているものに限っても、実に27種にもなります。
それらにはそれぞれ校訂者がついており、その中には東亜堂版を校訂した幸田露伴なんていう名前もあります。
しかし実際のところ、彼らは『通俗三国志』の文章に何らかの手を加えていたのでしょうか?実はただ湖南文山の文章をコピペしただけではないでしょうか?
ひるがえって、曹植「銅雀台賦」は『三国演義』において非常に効果的な演出に用いられています。*1
この賦が実は『三国演義』の中でも、李卓吾本以前と毛宗崗本とで字句が異なっていることは、仙石先生と渡邉先生の著書『三国志の女性たち』に詳しくあります。
【李卓吾本】
【毛宗崗本】
その上で『通俗三国志』でこの箇所を確認しますと、「挟二喬於東南兮、若長空之蝃蝀」と、李本と同じ字句になってます。『通俗三国志』の底本を李卓吾本とする定説と合致しますね。*2
ところが、早稲田大学出版部が刊行した『通俗三国志』(明治44年)は字句が以下のように異なっているのです。
上の句は李本に、下の句は毛本、という形ですね。
毛本に準拠して校訂しようとしたものの、上の句の異同に気がつかなかった、といった所でしょうか。
一見するとただ"挟"の字を"攬"にし損ねた、たった一字のミスのようですが、この一字が毛宗崗が仕掛けた興味深いトリックに関わってくるので見逃せません。校訂者がそのトリックを理解していなかったこと、同時にそのトリックが明かされている原典を参照していなかったことが窺えます。
この様に、まあここでは校訂者の杜撰さが見えてしまう例でしたけど、たとえミスにしろ校訂自体は行われていた、という一例として自分は注目したいところであるのです。