野村愛正『三国志物語』(昭和15年)
戦時中に出版された三国志モノには、代表的なものとして以下の四作品があります。
昭和14年に出版された村上知行『三国志物語』。
昭和14年から18年に連載された吉川英治『三国志』。
昭和16年に出版された弓館芳夫『三国志』。
そして昭和15年に出版されたこの野村愛正『三国志物語』です。
「愛正三国志」の最大の特徴は何と言っても、子供向けを狙って書かれた『三国志演義』の抄訳本であることです。本文は『三国志演義』の訳出ではなく、演義のストーリーに沿った作者オリジナルの文章です。作者の創意が強く働いた抄訳本、ということでは『弓館三国志』と共通すると言えます。
しかし弓館が単純に全体を簡略化しただけであるのに対して、愛正は主人公たる劉備に関係する段落は力を入れてしっかりと書き、逆に関係の薄い部分はバッサリとカットするという、とてもメリハリの効いたストーリー構成に改変しています。そのため演義の冗長さが解消され、作者の文章の巧みさと相まってとても読みやすいです。子供向けという狙いが見事に活きている作品に仕上がっていると思います。
実際に、戦時中に少年時代を過ごした方には、この「愛正三国志」が三国志とのきっかけだったという方も少なくないようです。その様に好評だったためでしょうか、戦後も講談社から児童向世界文学集といったシリーズが刊行される際にはたびたび採録されています。
ところで「愛正三国志」の本文を比較しますに、やはり李卓吾本系統の特徴がいくつか見られましたので、これもまた『通俗三国志』がその種本に用いられているように思います。作者自身も序文でかつて『通俗三国志』を愛読していたことを回想していますし。
吉川・弓館・愛正、昭和初期に現れた新三国志とも言えるこれらのいずれもが、しかし相変わらず旧来の『通俗三国志』を基本としていることは興味深く感じます。
なお愛正は戦後の再録にあたって、一度本文を全面的に改訂しています。物語の流れなどは変わっていませんけど、表現の一部に手を入れたようです。旧版と新版とでも言えましょうか。
両者を見比べてみますと、まず語句や表現を易しく、平仮名を多めにしたり、文章の一部を削るなどより子供向けになっています。それに戦時特有の表現、皇紀の使用や日中戦争に関する話題なども削られていますね。また三国志的な誤り(涿郡の所属が冀州になっているなど)の訂正がされています。
なので総じて新版の方がより読みやすくなっている、と思います。自分の印象では、旧版の方が雰囲気があってちょっと好きですけど。
ちなみに、現在流通しているクレスト社出版のもの(平成5年刊)は旧版を底本にしています。
ところで旧版新版については、クレスト社版の序文、谷沢永一さんにより詳しく書かれています。
それによれば、「愛正三国志」が最初に書かれたのは昭和15年。
そして終戦後の昭和21年に「少国民名作文庫」シリーズに採録された時に書き変えが行われました。これが新版です。
一方で旧版の方も戦後別の文学集に採録されたため、旧版新版両方とが流通することになったそうです。
そして今回、クレスト社から再刊するにあたっては新版の方を底本にしたとのこと。「これを機会に、野村愛正が力をこめて書き直した改版が、大人にも若者にも、広く読まれるよう期待するものである」、序文はそのように締めくくられています。
しかしこの説明が実はとんだ大間違いだった訳です。
国会図書館に蔵書されているものを調べると、「愛正三国志」は5回出版されています。
・昭和15年に講談社から出版された、最初の一冊。
・昭和21年に「少国民名作文庫」シリーズに採録されたもの。
・昭和24年に「世界名作物語」シリーズに採録されたもの。
・昭和27年に「世界名作全集」シリーズに採録されたもの。
・平成5年にクレスト社から再版された、最新の一冊。
これらの本文を比較したところ、谷沢さんが言う書き変えは実は昭和21年ではなく、昭和27年の「世界名作全集」でもって行われていました。
なので「愛正三国志」のうち、昭和27年刊「世界名作全集」版のみが新版であり、残りはすべて旧版に拠るものです。
谷沢さんは27年版を旧版と思われていたようですが本当はこれこそが新版で、逆に自分が新版だと思って自信満々にクレスト社から出した21年版が戦前の旧版なのです。書き換えが昭和21年だと思い込んだために、旧版新版を取り違えて出版するなどというミスをやらかしたんだと思います*1。
ざまあないです。
*1:http://blogs.yahoo.co.jp/satin/50208679.html
例えばこちらの方は序文の説明とご自分の記憶を元に新版旧版の違いを分析されていますけれど、残念ながらそれはどちらも旧版の文章です。多少の文字の異同はあるでしょうがそれは出版社による校訂の違いであり、作者の改訂とは関係ありません