三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

諸葛亮にして死せざりせば

 先日京都に遊んだおり、「諸葛亮にして死せざりせば」と題する短篇が古い一冊の書物に収録されているのを発見しました。読んでみると、まさしく三国時代の戦争について記してあり、諸葛孔明五丈原以降に関するすべての記述が、『三国志演義』と異なっていました。そればかりでなく、魏・漢・呉の三つの国のなりゆきも、「正史」と全く違うんですよ。
 その跋文によると、諸葛亮の死は、実に史上に見るところの最大恨事である。彼をして、若し幸いに死せざらしめば如何という想像は、史を読むものの普通に着意するところであるが、それが果たしてどんなことになるかという明晰なる考は、なかなかまとまって浮かび出るものではない。しかるに本作は、この想像を具体的に結選しており、誰しも必ず節を撃って、我が心を得たりと絶叫するであろう、云々と。
 これは諸葛亮が死ななかったら、という"もし"を書いているものです。だからこの書物は、諸葛亮が延寿の祈祷を七夜にして失敗してしまうその直前の所から始まっています。
 「諸葛亮にして死せざりせば」の作者は何人とも知れませんが、その内容は興味深いです。ここに自分は、それをあらすじにして紹介したいと思います。








 これより前、司馬懿蜀漢陣営を探り、諸葛亮の病が重いことを突き止めていた。そこで長子の司馬師鉄騎三千を授けて蜀軍を攻めさせるとともに、次子司馬昭許昌に向かわせて呉軍孫権との連合を進言させた。
 こうして司馬師軍は、諸葛亮が祈祷をする本陣に押し寄せたのであるが、諸葛亮はそれを聞いて少しも騒がず、北平将軍馬岱に迎撃を命じた。馬岱は一戦、ものの見事に司馬師を討ち取った*1
 そして祈祷も遂に七日を終え、諸葛亮の忠誠は天帝を感動させしめた。そこで天帝は華陀にその病を全快させよと勅命を下し、かくて華陀の霊薬は諸葛亮の病を一朝にして全快させてしまったのであった*2


 これより前、諸葛亮大病の報せが成都に伝えられており、後主劉禅その次子、北地王劉褜を見舞いに派遣していた*3諸葛亮が全快すると聞くや早速劉褜は面会し、成都の近況を細かに伝えた。劉褜は近頃、中常侍黄皓の専横が甚だしいことを慷慨するが*4、その折に魏延が急に帷幕に入って見え、曹丕孫権と連合して蜀に攻め込まんとしている由を報せた。既に司馬昭の進言を容れた曹丕は、華歆を遣わして呉との連合を成立させていたのであった*5
 諸葛亮が劉褜に申すには、呉は陸遜を大将として間もなく攻め込んでくるだろう。白帝城李厳が守っているが、陸遜相手には力不足なので、大王自身が赴いて援けてほしい。自分はこの地に留まって魏軍を防ごう、と。劉褜はその言を聞くやすぐさま白帝城に向い李厳と共にその守備にあたった*6


 さて孫夫人孫権実妹であるが、劉備に政略婚をしたはずがむしろ劉備に惹かれてしまい、無理やり連れ戻されてからは鬱々として楽しまず、夷陵で劉備が敗死したと聞くと遂に長江に身を投げて死んでしまった。しかし異説によれば孫夫人は猶生きていて、日々劉備を思慕していた*7
 かくしてこの日、孫夫人は天象を読むに、魏呉に国の星が暗澹としており、これに反して西南の方では勝気が天に昇っている。これによって遂に孫夫人は、蜀漢の中興を知って大いに喜んだのであった*8


 病を癒した諸葛亮は、いよいよ中原に討って出ようとしていた。それを見た司馬懿、自分の才能が諸葛亮に遠く及ばないことを悟っていたので、苦し紛れに司馬昭成都に派遣して、黄皓に通じさせて内側より蜀を崩さんと謀った。
 それに乗った黄皓は、諸葛亮は如何ともし難いので、北地王劉褜を罪に貶めようとした。呉の方面を危うくすれば諸葛亮も簡単には魏を攻めることできなかろうとのことである。*9
 ある日劉禅が昭烈帝の廟に参拝していると、一人の刺客が躍り出てきた。幸いに劉禅に怪我なく、刺客は捉えられたが、これを尋問してみると劉褜が帝位を奪わんとして派遣した刺客であった。これにより黄皓は劉褜を処分をするよう勧めるが、蔣琬、費褘が諌めるのでさすがの劉禅も思い留まり、まずは諸葛亮に相談した上の事にするとし、ひとまず兵を派遣して劉褜の邸宅を囲むに留める。留守を守る崔夫人は悲嘆に暮れるほかなかった*10


 司馬懿の謀略実らず、ついに動き出した諸葛亮。まず鎮北将軍魏延に精兵一万を与え子午谷より進攻させ*11、北平将軍馬岱には三万で以て魏軍を正面から攻めさせ、さらに護軍将軍姜維には五千を与えて奇兵とした。
 子午谷を進軍する魏延、すると突如司馬昭の軍勢と遭遇する。ところがこの司馬昭軍は備えが薄く、それを見た魏延は一気呵成、瞬く間に敵を破って司馬昭を討ち取ってしまった。これは司馬懿が、諸葛亮は細心堅実であるから決して子午谷を進むような博打はしないだろうと見て、後方にいる司馬昭の守りを薄くしてしまったのである。これにより前には馬岱、後ろを魏延に取られてしまった司馬懿は為す術なく、あえなく生け捕られてしまった*12
 勝ちに乗ずる魏延馬岱、そのまま魏の都なる許昌に攻め寄せ*13、一挙に包囲して曹丕を捉えんとした。
 窮地に追い込まれた魏皇帝曹丕は華歆に相談し、やむを得ないので呉に投降した上で再起を図ろうと、城を棄てて許昌を脱出しようとした。しかしそれを見越していた諸葛亮、予め羌維を待ち伏せておいたので、果たして曹丕・華歆は容赦なく引き捕えられてしまった。
 諸葛亮許昌に入城すると、まず華歆と見え、伏皇后を惨殺し漢王朝を簒奪したその罪を責め、その場で斬り捨ててしまった。そして曹丕には厳しく監禁を加え、後日成都へ送った。
 また諸葛亮曹魏の罪悪はそもそも曹操から始まるものであるので、その墓を暴いて首を斬り、簒逆を戒めんと言った。そこで魏延がそれを命じられたが、曹操はかかることもあろうかと七十二もの偽陵を築いていたから、どれが本物か分からない。近隣の農民などに尋問してもなお知る者がいないので困り果てていると、ある人が進言するに、この七十二の偽陵を一つ残らず掘り返してみればその中に本物があるのではないかと。これには魏延も納得して、早速陵墓を残らず底まで掘り尽してみれば、果たして曹操の死骸が発見された*14。水銀に浸されていた曹操の死骸は少しも腐敗していなかったので、魏延はその首を斬って、諸葛亮に献じた。ここに魏国は滅亡し、漢の恨みは報い尽されたのだった。


 さて呉の方面。
 これより前、孫呉は魏からの申し出を承諾することに決し、大都督陸遜に大軍を率いさせて蜀への侵攻を始めた*15。その軍威は非常なもので、一挙に蜀漢を滅ぼさんとの意気込みであった。白帝城李厳らは慌てて北地王に防守の方策を講じたが、劉褜は少しも驚かず、自ら各地の要衝を戒め、堅く守って動かぬように下知した。
 一方で成都では、蔣らの諫言によって策略が進まないことに業を煮やした黄皓が、詔を偽造して密かに白帝城李厳に送り、劉褜を殺そうと図った。しかし李厳は劉褜の忠義が本物であることを熟知していたので、これを劉褜に打ち明けてしまった。さらに諸葛亮の使者によって黄皓司馬昭から賄賂を受け取っていたことが判明。こうして黄皓は処刑され、邸宅を囲まれていた崔夫人も疑いが晴れたのだった。
 劉褜にとっては背後の憂いもなくなったところに、諸葛亮から許昌陥落に報せを受けたので、いっそこのまま直接に呉を攻めてやろうという次第になった。陸軍を率いるは李厳、水軍を率いるのは劉褜である。


 ところで関羽は、荊州において無念の討死したのち、その霊魂は天に昇って、霊霄天将に封じられていた。今回劉褜が呉を伐つに際し、これを援けたいと思っていたところ、上帝が詔を下し、関元帥は陰兵を率いて劉褜の援軍になるべしとのこと。こうして漢と呉の決戦に参戦した関羽は、劉褜には順風で以て援護し、対して陸遜の船には逆風を吹かせたので、さしもの陸遜も大敗を喫する。敗北を恥じた陸遜はそのまま自刎してしまった。
 破竹の勢いに乗じた劉褜は一挙に建業まで迫る*16。とうとうここに孫権も降伏し、魏呉は亡び、天下はふたたび統一された。


 成都に移送された曹丕司馬懿孫権は互いに対面し、その不運をただただ嘆く*17。そして曹丕司馬懿は首を刎ねられたのであるが、孫権に関しては哀れであるし、その妹が先帝の夫人であったために、これを禁錮するに留めた。
 こうして天下の諸事がすべて治まると、諸葛亮は上奏して、すでに昭烈帝の大恩に報いることができたので、この上は南陽に帰って余生を過ごしたいと願い出た。劉禅はこれを何度も留めたが、ついに孔明は朝廷から去ってしまった。
 また劉褜であるが、ここに父帝の劉禅は、自分は庸愚であるから位を北地王に譲ると詔した。かくして劉褜が蜀漢の三代目皇帝に即位した
 新帝は即位すると、まず崔氏を皇后に立て、次に南陽諸葛亮に勅使を送って労い、また孫尚香を正式に成都に迎えて尊号を送り、漢寿亭侯関羽*18には改めて諡してその廟を祀った。こうして漢王朝の中興は果たされたのであった。

*1:三国志演義』では奇襲をしたのは夏侯覇、それによって魏延諸葛亮の祈祷を台無しにしてしまい、諸葛亮はそこで自らの天命を悟るのでした。ですがもしそれが起こらなかったとしたら、というifがこの物語ということになります。ちなみに同じく蜀漢サイドの創作『反三国志演義』は徐庶劉備の元を去らないというifによって歴史が変わってしまう物語です。

*2:華陀は既に死去していますので、天帝が華陀の霊魂に勅を下した訳です。やはり病を祓うと言えば華陀、なのでしょう。

*3:この物語のキーマンとなる、北地王の劉褜です。蜀漢滅亡に際して国を憂いて自害した皇族として、演義勢からは何かと人気なキャラですね。『反三国志演義』でも最終的に蜀漢を再興して皇帝に即位するのは劉褜です。『通俗続三国志』では劉褜の遺児が登場するんでしたっけ?演義モチーフのグッズにも結構使われたりもしますし。唯一まともな蜀漢皇族として、色々期待されてる所が窺えます。

*4:本来ならば黄皓の台頭は蜀漢後期です。このように劉褜・曹丕黄皓などが時代を無視して総出演するのはいかにも戯曲っぽいです。賞すべき善を賞し、罰すべき悪をまとめて罰したいということでしょう。

*5:曹丕も華歆ももちろん既に亡くなっているはずです。それだけ、この両者はどうしても誅罰したかったのでしょう。曹丕は漢を滅ぼした張本人であり、華歆も簒奪を主導したり漢室に暴虐無礼を働くなどして演義派・蜀漢正統派から蛇蝎のように嫌われている人物です。華歆は『反三国志演義』でもかなり凄惨な最期を与えられてますしね。曹魏権臣の代表格として痛めつけられることの多い人です

*6:李厳ももちろん既に失脚しているはずの人物です。自らの保身のために諸葛亮の足を引っ張った李厳ですが、しかし意外にも、あんま李厳演義信者から嫌われてるとこって見ないですよね。何はともあれ、諸葛亮を信じ続けて亡くなったところを評価されているのでしょうか

*7:孫夫人が自殺してしまうのは『三国志演義』のうち毛宗崗本からです。ここではストーリー上孫夫人を生かしておきたくも、蜀漢を讃えるエピソードである孫夫人の自害も捨てがたいため、異説として紹介しているのでしょう。

*8:この時実は魏呉の滅亡も同時に予見しています。祖国の滅亡を知ってなお漢の再興を手放しに喜んでいるのであり、孫夫人の気持ちがまったく漢にあることを示しています。

*9:諸葛亮を失脚させる謀略は『三国志演義』の中で、苟安を利用して一度使われていますね。ここではさすがに二度は通らないと見て、ターゲットを劉褜に変更したようです

*10:崔夫人は『三国志演義』から登場し、自害する夫に自ら従って命を断っており、やはり演義派から評価の高い人物です。

*11:これはかつて一次北伐の前に魏延が献策した、子午谷を通って長安を陥とそうという作戦を踏まえたものです

*12:魏延馬岱のコンビは、もちろん馬岱に斬られた者、魏延を斬った者、って組み合わせです。この様に二人がセットで活躍できるのも、すべては諸葛亮が健在であるがためということでしょう。

*13:魏王朝の首都は洛陽が正しいです

*14:この場面は、『三国志演義』毛宗崗本にある「いくら偽墓を作ろうとも全て暴かれてしまってはどうしようもないだろう」という注釈を踏まえたネタだろうと思います。対して『反三国志』では馬超が七十二の墓を暴きましたが、その中には曹操はいませんでした。『聊斎志異』にも曹操墓の説話があり、そこでは毛宗崗と同様のツッコミの上、やはり遺骸は七十二の墓以外に埋葬されていました。

*15:孫呉から裏切ってくれれば、安心して蜀漢も呉を滅ぼせるというものです

*16:元ネタはもちろん杜預ですね

*17:魏晋呉の皇帝が一堂に会すってのも不思議ですね

*18:寿亭侯ではなく、正しい爵位にしています。