三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

廖化、長寿の謎について



 この謎に対してネットでは、以下の「三国志博物館集解」さんの様に、廖化が黄巾賊という設定が演義の創作であることを指摘、よって廖化の長寿も演義の創作にすぎないとの結論を出している所が多いと思います。
  http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50017218.html
 でもでも、どうせ演義のことだからそんな無茶な生没年になっちゃったんでしょ?、みたいな見方はよくないと思うんです。『三国志演義』はとってもリアリティ溢れる小説なんですよ(゚∀゚)

 廖化が初登場する第二十七回を見ますと、廖化が黄色の頭巾を巻いている様子(黄巾錦衣)と、関羽廖化を黄巾賊だと見ている発言(関公尋思「此人終是黄巾餘黨,未可作伴」)とがあります。廖化黄巾賊はこのふたつの描写に拠るもので、廖化自身がそう名乗っている訳ではないことは注意しなくてはいけません。
 ひるがえって、このシーンでは廖化を指して「少年」と呼んでいる文章がいくつかあります(「雲長舉目視之,只見一少年 ,黄巾錦衣,持槍跨馬」「少年棄鎗下馬,拜伏於地。」)。
 そこで『三国志演義』における「少年」の用例を調べてみると、


・劉協(3回)、当時9歳
馬超(10回)、当時17歳
・趙顔(69回)、当時19歳
・孫桓(82回)、当時25歳
姜維(93回)、当時23歳
・諸葛尚(117回)、当時19歳


 などに対して使われていました。よってここでの廖化も20歳そこそこと考えていいでしょう。

 廖化を長寿と見る話では、彼が184年の黄巾の乱に参加し、263年の蜀漢滅亡まで生きていた事がその根拠になっています。しかし「黄巾賊」と言われる人が、みな黄巾の乱に参加した人かと言うと、必ずしもそうではありません。
 この後に登場する周倉ですと参戦が明言されていますが、廖化に対してはその様な文章がないことは上記の通りです。
 なので廖化の長寿はその様な思い込みによる誤読であって、『三国志演義』作中においても廖化の生年は180年頃なのだろう、と思います。