反骨の相
金旋が敗れ武陵城まで逃れると、鞏志は城上に立って曰く「汝は天の時に従わず自ら敗亡した。私は百姓と共に劉備に降るぞ」
言い終わらぬうちに一矢が金旋の顔面に突き刺さり、金旋は馬から落馬した。鞏志は城を出て降伏し、金旋の首を張飛に献上した。
劉備は大いに喜び、鞏志を武陵太守に代わらせた。
(『三国演義』第五十三回)
これは荊南四郡のひとつ、武陵郡を劉備軍が攻略する場面です。
郡の従事鞏志は、諌めを聞かず劉備に抵抗した太守金旋を裏切り、これを殺して劉備に降伏しました。劉備はこれを喜び、鞏志に武陵郡の統治を任せます。
魏延は黄忠を救うと、百姓に韓玄を殺せと命じ、数百余人を従えて直ちに城に上がるなり、一刀で韓玄を斬り殺した。そしてその首を掲げて百姓を率いて城を出で、関羽に投降した。
……関羽が魏延を謁見させると、孔明はこれを処刑するように命じた。劉備が驚いて孔明に問うと、孔明が曰く「その禄を食んで主を殺すは不忠であり、その土地に住んでそれを献ずるは不義であります。私の見るところ魏延には反骨があり、将来必ず叛くでしょうから今これを斬って禍根を絶つのであります。」
(『三国演義』第五十三回)
一方、こちらはその直後の長沙攻めの顛末。
太守韓玄の横暴に魏延が謀反を起こし、これを殺して劉備らを迎え入れます。ところがその功労者魏延に対して、諸葛亮は処刑を命じます。
先には鞏志を郡太守とし、今は魏延を処刑しようとする。鞏志と魏延は共に旧主君を殺して劉備を迎え入れたという点では変わりはなく、諸葛亮の判断は矛盾するようです。それは何故でしょうか。
毛宗崗は以下の様に解説します。
鞏志が金旋を殺しても孔明は無罪とし、ひとり魏延を罪とするは、すなわち魏延が必ず叛く事を知っていたので、故にこれにかこつけて殺したいからなのである。
つまり諸葛亮がここで「主を殺すは不忠であり、土地を献ずるは不義である」と批難するのはあくまで表向き。真意はその後半「魏延には反骨があり、将来必ず叛く」の方にある訳です。諸葛亮の魏延に対する警戒はこの後も続き、上方谷ではダマシ討ちをしてまでこれの殺害を図るほどです。*1
あの諸葛亮が法を曲げてまでして、不義を犯してまでして殺さねばならなかった、それが反骨の相であり、『演義』における魏延のキャラクターなのです。