三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

呉王の件【呉】

 222年、孫権の王位は曹丕に剥奪されてしまい、以降の呉王は孫権の自称だったと思われます。
 それでもその後も引き続き王国の体裁があっただろうことは、225年に顧雍が丞相に任じられていること、孫登が引き続き王太子であったことから分かります。


 さて222年以降の呉王が孫権の自称だったとして、そうなると王様である以上、諸侯王とは皇帝の藩屏なのですから、何らかの"皇帝"を想定していたはずです。222年まで「魏の呉王」だった孫権は、それ以降は何の呉王を名乗っていたのでしょうか。
 普通に考えれば、劉協を仰いで「漢の呉王」を称していた、ってのが一番アリそうな気がします。孫権は建安の元号を使い続けていた時期もありましたし、曹丕による劉協廃位を認めない、というスタンスは考えられます。
 他ですと、一応同盟国ですからその正統性を認めて劉禅を漢皇帝と仰いでいた可能性。
 あるいは、叛乱はするけどその正統性までは疑わない、ということで曹丕を仰いで魏の呉王か。こんなところでしょうか。
 はたして正解は、この中にあるのでしょうかね(・∀・)