三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

南朝宋の劉裕の祖先

 

 高祖武皇帝、諱は裕、字は紱輿、小名は寄奴、彭城縣綏輿里の人、漢の高帝の弟楚元王交の後なり。
 交は紅懿侯富を生み、富は宗正辟彊を生み、辟彊は陽城繆侯紱を生み、紱は陽城節侯安民を生み、安民は陽城釐侯慶忌を生み、慶忌は陽城肅侯岑を生み、岑は宗正平を生み、平は東武城令の某を生み、某は東萊太守景を生み、景は明經洽を生み、洽は博士弘を生み、弘は瑯邪都尉悝を生み、悝は魏の定襄太守の某を生み、某は邪城令亮を生み、亮は晉の北平太守膺を生み、膺は相國掾熙を生み、熙は開封令旭孫を生む。旭孫は混を生み、始め江を過ぎり晉陵郡丹徒縣の京口里に居す。官は武原令に至る。混は東安太守靖を生み、靖は郡功曹翹を生む。是れ皇考たり。(『宋書武帝紀)

 東晋を滅ぼして宋を建てた武帝こと劉裕ですけど、その祖をたどれば高祖劉邦の弟、楚王劉交に行きつくんだそうです。
 漢の宗室だったんですね!
 そこから丁寧に、孫の孫の孫の孫の孫の孫の孫の孫の孫の孫の子供である劉裕までの系譜が明らかにされており、よって漢の楚王劉交から二十二世の後裔が宋の武帝劉裕となる訳ですね。
 劉氏の末裔ならば漢王朝を再興すればよかったのに(´・ω・`)

 ちなみに、陽城侯の部分はたしか『漢書』王子侯表にもちゃんと書いてあったと思います。