張華『博物志』と陳寿『三国志』における文章合致
以前に話題にしました張華『博物志』と陳寿『三国志』の関係について、今度は真面目に考えてみます。
問題は、『三国志』東夷伝東沃沮にある文章と『博物志』卷二異人及び異俗にある文章とがほぼ合致していることです。
『三国志』東夷伝東沃沮
毌丘儉討句麗、句麗王宮奔沃沮、……王頎別遣追討宮、盡其東界。問其耆老「海東復有人不」耆老言、國人嘗乘船捕魚、遭風見吹、數十日、東得一島、上有人、言語不相曉。其俗常以七月取童女沈海。
又言有一國亦在海中、純女無男。又說得一布衣、從海中浮出、其身如中國人衣、其兩袖長三丈。又得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得之、與語不相通、不食而死。其域皆在沃沮東大海中。
『博物志』卷二、異人(A段落)
有一國亦在海中、純女無男。又說得一布衣、從海浮出、其身如中國人衣、兩袖長二丈。又得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得、與語不相通、不食而死。其地皆在沃沮東大海中。
『博物志』卷二、異俗(B段落)
毋丘儉遣王頎追高句麗王宮、盡沃沮東界。問其耆老言、國人常乘船捕魚、遭風吹、數十日、東得一島、上有人、言語不相曉。其俗常以七夕取童女瀋海。
両者を比較し、字句が異なる箇所は赤字に、一方にしかない字句には青字にしてみましたが、極めて文章が近しいことがわかります。
これは『三国志』が『博物志』を参照したがために起こったことなのでしょうか?
それとも『博物志』が『三国志』を参照したのでしょうか?
はたまた、『三国志』『博物志』は親子の関係ではなく、とある資料を共通して参照していた兄弟関係にあるのでしょうか?
なぞです。
ただひとつ問題になるのが、『博物志』は一度散逸しており、現行の物は類書などから佚文を集め直したものらしいのです。ツイッターで教えていただきました。しかもその集め方が結構ずさんなのだとか・・・。*1
となると、現行の『博物志』の文章を『三国志』と比較してもあんまり意味ないです。
実際、上記で引用した段落Aと段落Bをそれぞれ見てみますと、どうやらこれらも佚文を改変した上で収めた物のようです。どうも、段落Aと段落Bは、『三国志』の様にひとつの段落であったのが元々の形であるように思えます。
まずa段落冒頭「有一國亦在海中、純女無男。」にある「亦」です。現行『博物志』でこの文章の周辺を参照しても、この「亦」が受けているような内容は見当たりません。なのでA段落の前には本来何らかの文章があったのではないでしょうか。
同じくA段落の最後「其地皆在沃沮東大海中。」の「其地皆」ですが、A段落において説明されている土地は女國のみであり、「皆」という語を用いるのは不自然に感じます。
またB段落「問其耆老言、」という文辞もいささか変ではないでしょうか。「その耆老に問い(耆老が)言うならく」とでも書き下すのでしょうが、しかし「言」の主語がやや迷子です。本来あったはずの語を削った為にこうなったのではないでしょうか?なお『三国志』の同じ個所が「問其耆老「海東復有人不?」耆老言、」とするのは自然に読めます。
以上の理由から、おそらく原型は『三国志』のそれに近いもので、現行『博物志』は佚文を拾ったために、二つの別々の段落に分かれてしまったのでしょう。
では現行『博物志』はこの佚文をどこから拾ってきたのでしょう?『御覧』あたりでしょうか?
*1:例えば『隋書』から紛れ込んでる文章があったり