月刊『反三国志演義』、第五回
☆第五回 若き周瑜が水陸に曹兵を破り
背の低い張松が東西に蜀の領土を売ってまわる
※文庫版123ページ〜147ページ
○あらすじ
呉の内地にも曹操軍の動きがようやく伝わり、鄱陽よりついに周瑜が出陣する。緒戦以降は小康状態だった濡須が、周瑜の到来でにわかに決戦となる。
両軍ともに勇将を繰り出して戦うも、形勢は呉がやや有利。挽回せんとする魏軍は、于禁が奇襲を仕掛け、張遼が渡河を試みるも、ことごとく周瑜に看破されて思うようにいかない。逆に呉軍は続々と援軍が到来する。そもそもは呉の虚を突いて南征したはずの曹操軍、呉の思わぬ備えのために次第に劣勢に立たされてゆく。
ここが勝負と見た両陣営、ついに総攻撃を仕掛ける。呉軍が黄蓋の火攻めで大打撃を与えれば、対する魏軍も曹彰が切り札の鉄騎を繰り出して形勢を逆転させる。勝敗決するかと思われたその時、突如として騎兵軍団が魏軍を強襲する。裏切った張繍であった。
魏軍はまさかの騎兵襲来に驚き、しかもそれを率いるは味方だったはずの張繍。曹操は壊滅的な打撃を受け、とうとう撤退を余儀なくされてしまうのであった。
場所は代わり、こちらは蜀の成都。五斗米道張魯の侵攻に怯える劉璋は、張松の献策に従って曹操に救援を求めようとしていた。しかし実はこの張松、腹の中では蜀の地を曹操に献上して自らの栄達を企む、大変な奸臣であったのである。そうとも知らず劉璋は張松を交渉役に派遣してしまい、張松は嬉々として許都に向かうのであった。
○解釈
・陸遜の続柄(p124)
本作では何故か陸績の子供になっていますが、本来は叔父と甥の関係です。
・周瑜と音楽(p129)
出典は『演義』四十五回「瑜欲親往探看曹軍水寨,乃命收拾樓船一隻,帶著鼓樂,隨行健將數員……」と思われ、周瑜が蔡瑁らの水軍を偵察する際に、楽隊を伴っていた様子はあります。
ただ本文の様に「さかんに管弦をかきならして」といった程の描写ではないです。
・曹操と周瑜の容貌(p130)
曹操の外見は「背が低く、下品な感じがあり、ずるそうで、口や眼が病的にゆがみ、コソコソと猫背で歩く。」と描かれています。
一方で周瑜は「錦袍金鎧、白馬銀鐙、美貌は玉の如し、艶やかなることは竜が戯れるが如し。」と、ひどいまでにくっきりと対比されてしまっています。
・夏侯徳(p140)
『演義』創作の人物で、夏侯尚の兄。
・黄蓋の火攻め(p142)
○感想
物語の流れ的には『演義』でいう赤壁の戦いに相当する、曹操の南征でした。赤壁の戦いと違って劉備陣営は関係しませんし、戦いも水上ではなく陸戦ですけど。それでも負けちゃう曹操軍て・・・。
まあ周瑜最大の見せ場ですね。
ですけど、正直『反三国志』の戦いの場面はちょっとアレなので、、、
「魏軍が計略を立てる→味方がそれを予想して計略を立てる→味方の勝ち」
「味方が魏の計略を予想して計略を立てる→魏が予想通りの計略を立てる→味方の勝ち」
という2パターンしかないです(>Д< ;)
『反三国志』が荒唐無稽だと言われるのは、この戦闘パートがめちゃくちゃな出来であるためにそう感じてしまうからだろうと思います。
どなたかが『反三国志』がこれほど荒唐無稽なのは、そうでもさせないと蜀が天下を奪れない
ことを揶揄しているからだ、とおっしゃってましたけど、僕は単純にストーリーを組み立てる力が周大荒に不足していただけだろうと思います。
他の基本的な部分では、けっこう『三国志演義』に準拠しているんです。