三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

怪しげな孔明の孫 【諸葛質】

 昨日に続き、ウィキペディアの怪しげな記事、諸葛質についてです。
 wikipedia -「諸葛質」

 とにかくウィキの記事が信憑性に欠けるので、ともすれば編集者さんの妄想ぶっぱじゃないかと疑っているのですがねー。
 もちろん諸葛質の存在が不確かであるところはウィキも認めるところです。でも僕はこの諸葛質挿話自体が、張澍なる清代の学者に仮託されたウィキの妄想だろうなと思いました。
 
 ともあれ、ウィキさが出典に挙げる張澍『諸葛忠武侯文集』を見れば話が早いってんで、実際に買ってやりましたよぉ。
 中華書局より段熙仲編校『諸葛亮集』って形で出版されてまして、しかも東方書店さんに在庫があるってんで、意外に簡単に手に入ってしまいました。
 値段は1800円くらいで、まあウィキのウソを暴くために買うにはちょっと高いかなとも思いましたけど。
 http://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=015437&bookType=ch










 したら本当に書いてあったんですよね(´・ω・`)ショボーン
 にゃもさんはウィキのこと十のうち九か十は嘘だろうと思ってました(´・ω・`)ゴメン
 まさか本当に載っているとは全然考えてませんでした(´・ω・`)バカ



 ウィキはその出典を「清の学者である張澍が記した『諸葛忠武侯文集』の「故事巻一・雜記」・『編集諸葛忠武侯文集自序』に記されている」としていましが、これはちょっと正しくはないです。
 張澍『諸葛忠武侯文集』故事諸葛篇が引く、『雑記』という書籍に諸葛質挿話は紹介されていました。
 それによると以下の様な次第です。

原文:澍案、雑記云、後帝赴洛、洮陽王恂不忍北去、與関索定策南奔、衛瓘発鉄騎追至、得霍弋・呂凱合攻、方退、諸葛質為使、入蛮邦結好、時孟虬為王、祝融夫人曰「卻之不仁」虬従母命、回報洮陽王、住永昌。
雑記所云諸葛質、瞻子也。

意訳:劉禅が洛陽に赴くと、洮陽王の劉恂は共に行く事に堪えられず、関索と相談して南方に奔った。すると衛瓘がそれを追撃してきたので、霍弋と呂凱と軍を合わせて逃れ、諸葛質を使者にして蛮王孟虬に保護を求めた。孟虬の母である祝融がこれを受け入れることを勧めたので、かくして洮陽王らは永昌に留まる事が出来た。

 どうでしょうか、びっくりです( ゚д゚)
 孟獲祝融の子供である孟虬にも驚きましたけど*1関索が登場したことに何より驚きました。
 確かに関索は南征にゆかりある人物ですからね。他でも霍弋と呂凱は『三国志』で南方の太守であったことが書かれていますし、件の諸葛質は他でもない"七縦七禽"諸葛亮の孫です。
 ツイッターでむじんさんがおっしゃっていた事には、これらの逸話は民間に伝わる伝承を収集したものだそうで、なので登場人物がみな南征に縁のある人なのでしょう。

 更に細かく見ますと、関索祝融は勿論『演義』や伝承の人物ですが、反対に霍弋は『演義』には登場しない『三国志』のみの人物です。
 呂凱については、『三国志』によれば蜀滅亡の以前に亡くなっており、それに従えばここで登場はできません。この矛盾は張澍も指摘しています。また呂凱は『三国志平話』や『花関索伝』では関索の"敵役"として登場しています。
 そして劉恂については、ウィキでも指摘されている通り、『三国志』に従えば新興王が正しく、また劉禅死後には安楽公を継ぐ人物ですから、この挿話にふさわしい人ではありません。



 しかし本当にウィキの通りでびっくりでした(´・ω・`)
 ということは、諸葛懐や諸葛果らも・・・

*1:ウィキ「諸葛質」では孟虬に関して孟獲との関係は不明としています。なので編集した方はこの原文を直接参照したわけではなさそうです。