『通俗続三国志』卷一 あらすじ
明代、酉陽野史によって成立した『三国志後伝』は、『三国志演義』の後を継いで、西晋末から東晋初までの動乱期を描いた章回小説です。
そして江戸時代、これを翻訳した通俗小説『通俗続三国志』*1と『通俗続後三国志』*2がありました。
こちらではその『三国志演義』の続編を、第一巻よりあらすじでまとめてみたいと思います。*3
☆巻之一、収録タイトル
・王渾と王濬が大いに功を争う
・郴嶺に呉将が商議す
・郴嶺に呉将が晋兵を敗る
・晋が呉主の書を促し湘東を狥う
・蜀雄が乱を避けて興業を計る
・張賓と宣于らが蜀の乱を避く
・劉霊が一棟梁を救う
☆『後伝』
第一回「後主降英雄避乱」
第二回「二賢合計誅訒艾」
第三回「晋武帝興兵伐呉」
第四回「王渾王濬大争功」
第五回「郴嶺呉将敗晋兵」
に相当する
高祖劉邦が築いた漢王朝は、周の徳を継いで天下を治め、万民はこれに心を寄せた。一時は佞臣によって国を奪われもしたが、幸いに光武帝劉秀が再興をして、ついに東西400年の大王朝として君臨した。
しかし物事は盛んなれば必ず衰える。漢家もまた同じ、いわゆる三国時代になっては昭烈帝劉備が辛うじて一国を保つまでに衰え、そして諸葛孔明が薨じてしまうと忽ちに奸臣の欲しいままとなり、ついに炎興元年に蜀漢が滅亡した。
しかし漢は未だ滅んではいなかった。火徳の衰退を哀れんだ天が、三度の再興の機を与えていたのである。
物語は太康元年、西晋が呉を滅ぼして天下を一つに治めたところから始まる。
・王渾と王濬が大いに功を争う
太康元年三月、晋はついに孫呉を降して天下を統一した。60年振りの天下統一を祝うその宴席で、ただ驃騎将軍孫秀のみは祖国の興亡を愁い涙した。
そもそも平呉のことを回想すれば、初めは賈充をはじめ百官は軽率に軍を起こすべきでないと遠征に反対であった。それを張華、杜預が強硬に必勝を主張したのでとうとう武帝が決断したのであった。
ところで、呉がまさしく降伏しようとしようとしていた時に、王渾と王濬の間でちょっとした騒動が起こっていた。王濬が独断専行で次々に戦功を挙げていくことが、主将である王渾には面白くなかったのである。怒った王渾はこれを誣告して、軍律を犯した咎で誅伐しようとした。対する王濬もこれを聞いて怒り、あわや味方同士が軍を交える事態になった。
しかし参軍何攀の説得で王濬は思いとどまり、また王渾も王濬の謝罪を受けた上に武帝に宥められたため、かろうじて訒艾・鍾会の二の舞は防がれた。
・郴嶺に呉将が商議す
時間は戻って現在。呉は平定されたものの、未だにいくつかの郡県が降伏せずにそのままにされていたので、早急に追討すべしと、冠軍将軍羅尚と平東将軍夏侯駿が派遣された。
さて広州刺史の陸晏は、名将陸抗の長子であったが、「晋が孫呉討伐の軍を出した」と聞き、ただちに滕脩ら諸将を招集して対策を練る。が、そこへ姚信らが現れ、早すぎる孫皓の降伏と、同時に羅尚ら征討軍の接近を報せた。祖国を失った陸晏らは嘆き悲しみ、そこへ陸玄、周處、諸葛慎ら文武の名臣が加わって、せめて一州を守って孫呉に忠義を立てんと徹底抗戦を計る。
・郴嶺に呉将が晋兵を敗る
攻め手の羅尚、劉弘、周旨、山簡らに対し、守る周處、諸葛慎らは郴嶺の天嶮に拠って防衛せんとする。果たして最初の戦いでは地の理に加えて猛将周處の奮戦により呉軍は晋軍に大勝する。
緒戦で郴嶺の攻め難きを悟った羅尚は、周旨と山簡の進言に従って、敵を要塞から誘き出した上で伏兵で殲滅する作戦を採用する。翌日、晋軍はさかんに周處を罵って挑発。短気な周處はすぐさま出陣しようとしたが、すかさず諸葛慎が諌めたため、伏兵に十分備えた上で出撃する。
迎え撃つ周旨は、同族のよしみから周處に降伏を勧めるが、周處は呉に忠義を誓って拒否。猛然とこれに攻めかかったためにさしもの周旨も支えられず遁走。とそれに留まらず、怒涛の如く押し寄せる呉軍に晋軍はすっかり恐慌して、埋伏の軍までもが作戦もどこへやらと退却してしまい、晋軍は甚大な被害をこうむって大敗。周旨も羅尚も敵わじと、洛陽へ救援を請うより他なかった。
・晋が呉主の書を促し湘東を狥う
一方で夏侯駿、賈模の軍は湘東を攻めていた。しかしこちらも建平太守吾彦の抵抗に遭って、散々な被害を出していた。
かくして羅尚、夏侯駿から泣きつかれた朝廷では、力攻めの無理を悟って、張華の献策に頼ることとした。すなわち、旧呉勢力の強固な抵抗は祖国への忠義によるものであるため、孫皓直々に降伏を促す書状を出させれば、戦意を失って降らざるを得ないだろう、というものである。果たして孫皓の書状を受け取った陸晏は痛哭し、これ以上の抵抗に理がないことを悟って、ついに陸晏はじめ周處、陸玄、諸葛慎、吾彦らはみな揃って晋に降伏した。こうして西晋により諸勢力をすべて平定され、天下は太平となったのである。
・蜀雄が乱を避けて興業を計る
しかし結局、漢の正統は再び興り、火徳が中華を治めることとなったのである。その初めは、蜀漢が滅亡した炎興元年まで遡る。
北地王劉褜は、末帝劉禅の皇子であったが、滅亡間際の蜀漢において徹底抗戦を唱えながら父帝に容れられず、ついに昭烈廟で憤死した。
その遺児を託された弟劉璩は、従兄弟の劉霊や楊龍らと相談し、ここは一旦成都を逃れ、どこぞに身を隠して再起を図るべきであるとの結論に至る。と言うのもかつて諸葛孔明がその臨終で、自分の死後30年に再び漢の帝業を興す人物が現れると予言していたからである。
こうして今こそ予言の時と、齊万年や、楊儀の子楊龍、廖化の子廖全といった遺臣たちが漢朝生き残りの道を賭けて集結した。劉璩は息子の劉聡や兄の遺児劉曜、劉和、劉宣ら一族を率いると、魏の包囲を脱出せんと血路を切り開く。
・張賓と宣于らが蜀の乱を避く
また張賓や諸葛宣于も、同じく成都を脱出した一団であった。
張賓は張苞の長子であるが、生まれつき才能にあふれ、諸書に博覧し、孫呉の兵法に通じた秀才であった。当時蜀漢政権の首脳であった姜維はこれの非凡なることを見抜き、自ら養育しつつ、孔明より受けた奥義秘術を伝授していた。
そして今、姜維はもはや魏軍を推し留めようのないことを悟ると、かくなる上はと張賓らに脱出を勧める。張賓は仲間の説得によってやむなく、一団を引き連れて脱出を試みる。その一団とは即ち、趙槩兄弟、黄臣兄弟、諸葛宣于、魏攸兄弟と、まさしく蜀漢建国の功臣の末裔たちであった。