後漢の名族、三公輩出ランキング
「四世三公」と言いますけれど、それはつまりどれくらいすごいのか。
たとえば弘農楊氏は「四世太尉」ですし、蜀郡趙氏も四代続けて宰相格を出してますし。割といるんですね。
だから袁家にしても、そこまでめちゃすごいって訳ではないのかなって。
ということが気になったので、後漢において「複数の三公を輩出した家系」はどのくらいあるのか、挙げてみました。
1位 汝南郡汝陽の袁氏
袁安…司空⇒司徒
袁敞…司空
袁湯…司空⇒司徒⇒太尉
袁逢…司空
袁隗…司徒→司徒
袁紹…太尉⇒大将軍
計6人、のべ12人もの公とひとりの皇帝を輩出した汝南の袁氏がダントツの1位です。
やっぱり「四世三公」は伊達ではありませんでしたw
この他でも九卿などの高官もたくさん出しています。
明帝期に現れた袁安から後漢末の群雄袁紹まで、およそ150年に渡る息の長さってのも他を寄せ付けません。
2位 弘農郡華陰の楊氏
楊震…太尉⇒司徒
楊秉…太尉
楊賜…司空→司徒→司徒→太尉→司空
楊彪…司空⇒司徒→司空→太尉
次点につけたのは「四世太尉」の弘農楊氏でした。
輩出人数こそ4人と及びませんでしたが、のべ数では袁氏に並ぶ12公。特に楊賜などは5度も公に就いています。
「四知」の楊震や、後漢末の楊彪など有名どころも多い楊氏。最期は漢魏革命を越えて、楊彪が魏の文帝から光禄大夫の待遇を受けるに到ります。
3位 蜀郡成都の趙氏
趙戒…司空⇒司徒⇒太尉→司空
趙謙…太尉→司徒
趙温…司空→司徒
桓帝以降の後漢末期に暗躍した蜀郡趙氏です。
梁冀におもねって4公を歴任した趙戒。
長安政権でそれぞれ三公に登った趙謙趙温の兄弟。加えて趙温は15年も司徒を務めた、後漢最後の三公です。
また表にある趙典は三公にこそ登りませんでしたが、九卿を多数歴任して「七卿」と称され、清流党人の「八俊」に列せられるなど、やはり当時を代表する官僚でした。
4位 汝南郡平輿の許氏
許敬…司徒
許訓…司徒→司空⇒司徒
許相…司空⇒司徒
この家柄のことは知りませんでした。
平輿の許氏ってのは、あの許子将と同族なんですね。
三代続けて三公に登り、特に許訓は三公すべてに就任。これほどの家系でありながら彼らが『後漢書』に列伝を持たない理由は、彼らが宦官に阿諛して権勢を得ていたからです。殊に許相は親十常侍の官僚として代表格の様で、霊帝崩御後の宦官粛清に伴って殺されてしまっているほどです。
月旦評の裏にはこんな一族もいたとは、驚きました。
5位 汝南郡細陽の張氏
張酺…太尉→司徒
張濟…司空
張熹…司空
袁氏、許氏に続いて汝南郡より三度のランクイン。すごいですね汝南、どうやったんだ。
張濟、張熹は兄弟で、やはりそれぞれが三公に登りました。袁氏兄弟、趙氏兄弟に次ぐ三公兄弟です。
以上、後漢に三公を3人以上輩出したのは汝南の張氏までで、あとは2人輩出が18家*1あります。これはイメージしてたよりずっと少なかったです。数えてみると三公の二世三世ってのは、全体の2割程度でした。
例えば胡広など、ひとりで三職全てを歴するほどの権勢を誇った者は少なくないんですけど、しかしそれでもその権力や官職を子孫へと継がせることは難しいんですね。この頃では。累世の三公とは、思ってた以上にごく一握りのみの名門でした。
しかもここに挙がっている家系にしても、趙氏や許氏は後漢の後期になって権門に依る形で台頭した家柄です。
本当に、後漢初期から末期まで、絶え間なく高官を輩出し続けた大名門というと、それはもう汝南袁氏や弘農楊氏しかいないんですね。
*1:南陽郡新野の鄧禹・鄧彪。建国の功臣ですね。
沛国譙の曹嵩・曹操。曹丕を加えて3人に数えることもできますけど(笑)
河内郡の張歆・張延。親子関係です。
京兆郡杜陵の張純・張奮。これも親子です。
南陽湖陽の馮魴・馮石。祖父と孫です。
陳留郡東昏の虞延・虞放。虞延が従曾祖父になります。また虞放は曹騰に挙げられた人です。
河南国鞏の尹睦・尹頌。祖父と孫の関係とも、伯父甥の関係とも。尹頌の弟が「八顧」の尹勳です。
京兆郡長安の宋弘・宋由。伯父甥です。宋弘は「糟糠の妻」の故事の人。
漢中郡南鄭の李郃・李固。言わずと知れた「清流豪族」の親子です。
山陽郡高平の王龔・王暢。親子関係です。王暢は「八俊」に数えられています。
江夏郡安陸の黄瓊・黄琬。祖父と孫です。
廬江郡舒の周景・周忠。親子。あの周瑜の血縁ですね。
琅琊郡東武の伏湛・伏恭。伯父と甥です。
潁川郡舞陽の韓演・韓棱。祖父と孫です。
河南郡洛陽の种翬・种拂。親子です。かの仲山甫の末裔で、种翬は曹騰に評価されたことで有名ですね。
彭城国の劉緂・劉茂。親子です。宣帝の末裔です。
沛国蕭の劉光・劉矩。叔父と甥です。
弘農郡華陰の劉崎・劉寛。親子です。