三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

『後漢書』は梁冀派閥がだいきらい その1

 順帝之末、京都童謠曰「直如弦、死道邊。曲如鉤、反封侯」。案順帝即世、孝質短祚、大將軍梁冀貪樹疏幼、以為己功、專國號令、以贍其私。太尉李固以為清河王雅性聰明、敦詩絓禮、加又屬親、立長則順、置善則固。而冀建白太后、策免固、徵蠡吾侯、遂即至尊。固是日幽斃于獄、固是日幽斃于獄。暴屍道路、而太尉胡廣封安樂鄉侯・司徒趙戒廚亭侯・司空袁湯安國亭侯云。(『続漢書』五行志 謡)


 『後漢書』を眺めていると、梁冀やその周辺官僚に対する強い批難がよく目につきます。*1

 順帝の末年、洛陽では「真っ直ぐな弦は路傍に死す。曲がった鉤は列侯に封ず」という謡が流行ったという。
 質帝が崩御すると、李固ら三公を筆頭に百官は、次の皇帝として清河王を推した。
 ところが当時は外戚の梁冀が国政を専らにしていて、彼は幼い蠡吾侯を立てんとして、太后に迫り百官を脅しつけた。ために三公らはそれに屈伏した。ただ李固がなお反対したため、梁冀はこれを罷免させ、獄に下して殺してしまった。
 桓帝を立てた功績で以て、太尉胡廣は安樂郷侯に、司徒趙戒は廚亭侯に、司空袁湯は安國亭侯に封ぜられた。

 最期まで外戚の横暴に抵抗し続け死んだ李固を、范曄はとても高く評価しますが、かえって梁冀に屈した胡廣・趙戒・袁湯については厳しい言葉をぶつけます。
 『後漢書』の随所で見られる「桓帝を立てた功績で〜(桓帝立以定策)」などという言葉の裏には、おそらくその様な范曄の批難が隠れていると考えていいかと思います。






 ただ、范曄は胡廣らを厳しく批難しますが、一方で後漢当時においては彼らの行動がどの程度に考えられていたかはまだよく分かりません。
 この趙戒や袁湯はこれ以降も高官を輩出し続けますし、胡廣に至っては梁冀が誅殺されたその時にも三公であったため官を免じられますが、その後再び返り咲き、最終的には太傅に就いています。
 范曄らが言うほど、胡廣らは積極的に梁冀を支持していたわけではないのかもしれませんし、あるいは外戚の専横に与すること自体がさほど批難されるものでもなかったのかもしれません―宦官に与するに比べたら。
 しかし当時の実際がいずれにあったにしろ、范曄は彼らを強く謗るのです。 
 

 

*1:これは『続漢書』ですけど