悪来と曹操
典韋を悪来に準えはじめるのはいつのどの書からなんだろう?
てぃーえすのワードパッド‐「悪が来る」(9/25)
僕もちょっと検索してみたんですけど、典韋を悪来と評す文献は、『三国志演義』より前にはないみたいです。
てっきり、裴注あたりにあるだろうと思い込んでいたので、意外でした。
代わりに、典韋以外で「悪来」が人物評価に使われた例として、こんなんが見つかりました。
冠軍将軍の慕容垂 (符)堅に言ひて曰く「臣の叔父たる評 燕の悪来の輩なり。宜しく復た聖朝を汚すべからず。願はくば、陛下 燕の為に之を戮せん」と。乃ち評を出して范陽太守と為す。
―崔鴻『十六国春秋』
慕容評ってのはこんな人物のようで、つまりここでの「悪来」は、『史記』殷本紀に表される、「亡国の奸臣」の表現として使われています。
またこの他、史料中に多々見られる「悪来の故事」においてもそれは同様であり、逆に日本人がまずイメージする「有力無双」の面はほとんど見っかりませんでした。
歴史上「悪来」がイメージさせる第一は、佞臣・奸臣の意味であるようです。
じゃあ『三国志演義』はなんで、怪力無双の忠臣である典韋の人物評に、あえて悪来を用いたのでしょうか?
それは毛宗崗の評語から窺うことができるだろうと思います。
曹操曰く、「此れ 古の惡來なり!」(注)惡來、紂を助く。果然たり。
―「毛宗崗本」第十回
悪来とは何か。即ち暴君紂王を助けた人物である。はたしてそうであろう。
つまり毛宗崗は、典韋が悪来に準えられていると言うよりは、むしろ典韋と悪来を繋げることにより曹操を紂王に準える意があったのだろうと読んでいる訳です。その通りでありましょう。
「悪来典韋」とは、典韋の勇力を讃える言葉ではなく、実は曹操の奸雄ぶりを示す言葉であったのです。